三国志

胡潜(こせん)は記憶力抜群だが人間性に難あり

2022年11月7日

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名前胡潜(こせん) 字:公興
生没年不明
時代後漢末期、三国志
勢力
主君劉備
コメント記憶力は抜群

胡潜は正史三国志の、杜周杜許孟来尹李譙郤伝の中にある許慈伝に名前があがる人物であり、許慈とセットで語られる事が多いです。

胡潜は記憶力は抜群であり、優れた能力を持っていた人物ではありますが、性格に問題を抱えていました。

胡潜は許慈と不仲であり口論になった事もあり、時には鞭を振るい威嚇した話もあります。

劉備は胡潜と許慈の仲を残念に思い仲裁しようとした逸話も残っています。

今回は蜀の学士に任命されるも人間性に難があった胡潜を解説します。

因みに、正史三国志の注釈で孫盛は「蜀には人材がいなかった事で許慈や胡潜を掲載した」とまで述べています。

蜀で不仲と言えば魏延と楊儀が有名ですが、胡潜と許慈もかなり険悪な仲だった様です。

尚、杜周杜許孟来尹李譙郤伝には下記の人物が収録されています。

杜微周羣杜瓊許慈孟光
来敏尹黙李譔譙周郤正

天才的な記憶力

正史三国志の許慈伝によれば、胡潜は魏郡の出身だが益州に住んでいたとあります。

魏郡出身の胡潜が益州にやってきた理由に関しては、陳寿も分からなかった様です。

魏郡という地名で考えれば、袁紹曹操と何かしら上手くいかず、蜀まで逃れて来たのかも知れません。

正史三国志には胡潜は「学識が無かったが、ずば抜けた記憶力があった」と書かれています。

胡潜は祖先の儀式や葬式の規則や、五階級の喪服と言った決まりを全て手の平で指で書いてみせたり、地面に描く事が出来たとあります。

正史三国志の陳寿は胡潜に対し「物を手に取る様に知識を取り出す事が出来た」と抜群の記憶力を褒め称えています。

劉備は劉璋から益州を奪いますが、劉備も胡潜の能力を高く評価していた様です。

学士に任命される

劉備は蜀を平定しますが、後漢末期の動乱が十数年も続いていた事もあり、学問が衰退していました。

劉備は学問が衰退してしまった事を残念がり、書籍を収集し様々な学問をふるいにかけます。

そうした上で胡潜と許慈を学士に任命し、孟光と来敏には慣例制度を扱わせる事にしました。

胡潜と許慈は学士に任命されますが、草創期であった事もあり、様々な意見が出される事になります。

学士の中で胡潜は抜群の記憶力を持っており、許慈も鄭玄に学んでいた事から、当時では最高級の知識を持っていたのでしょう。

胡潜と許慈の論争は相手を抑えようとし、時には顔を怒らせ非難を浴びせ合い、感情を剝き出しにしたとあります。

喧嘩するほど仲が良いという言葉もありますが、胡潜と許慈は違っており、お互いが持っていない書物を貸し借りする事も無かった様です。

さらに、胡潜と許慈の論争がヒートアップすると鞭を持ち、相手を脅しつけるなど、意地でも自分の我を通そうとしました。

劉備は胡潜と許慈の能力を認めており残念に感じたのか、宴席で芸人に胡潜と許慈の真似をさせ反省させようとした話があります。

ただし、胡潜と許慈が芸人の姿を見て反省したのかは記録がなく分かっていません。

尚、胡潜の方が許慈よりも先に亡くなったとあります。

正史三国志の先主伝に西暦221年に糜竺許靖諸葛亮頼恭黄柱、王謀が劉備に帝位に就くように進言しました。

その中で、許慈の名前が登場しますが、胡潜の名前が出て来ません。

それを考えると、胡潜は西暦221年までには亡くなっていた様に感じています。

因みに、胡潜のライバルとも言える許慈は劉禅の時代まで生きていたと記録されています。

胡潜は許慈だけではなく劉琰廖立らと並ぶ蜀の問題児だと言えるでしょう。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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