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構成・文/宮下悠史

三国志

魏延の史実『勇猛で誇り高き忠義の士は哀れな最後を迎えていた』

2022年5月9日

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名前魏延(ぎえん) 字:文長
生没年生年不明ー234年
時代後漢末期、三国志、三国時代
勢力劉備→劉禅
年表219年 漢中太守に抜擢
230年 陽谿の戦い
234年 五丈原の戦い
画像三国志(コーエーテクモゲームス

魏延は劉備の配下となり、勇猛な武将として名を馳せた人物です。

魏延と言えば「反骨の相」や「裏切り者」のイメージが強いかも知れません。

しかし、史実の魏延を見るに裏切り者としての感じはしませんし、陳寿も『魏延は謀反を起こしたかったわけではない』と述べています。

魏延は実績を見るに有能な人であり、蜀漢に対しても強い忠誠心を持っていた様にも感じています。

ただし、魏延は誇り高い(プライドが高い)部分が多々あり、それが原因で無惨な最後を迎える事になってしまったとも言えるでしょう。

魏延と言えば、第一次北伐の時の「長安急襲策」を思い浮かべる人もいるかも知れません。

しかし、近年の研究では「現実的ではない」「魏延は長安急襲策を提案していない」などの話が主流になってきている状態です。

今回は有能な武人ではありましたが、性格が原因で哀れな最後を迎えてしまった魏延を解説します。

尚、正史三国志で魏延は「劉彭廖李劉魏楊伝」に収録され劉封、彭羕、廖立李厳劉琰、楊儀らと同じ仲間として扱われています。

劉彭廖李劉魏楊伝に関しては蜀の問題児を集めた様な伝であり、この中の楊儀とは魏延は特に仲が悪く、劉琰とも関係が上手く行かなかった話があります。

 

劉備に仕える

魏延は劉備に仕える事になります。

三國志演義では魏延は劉備を慕っており、劉表の死後に劉琮曹操に降伏を決め、劉備が襄陽の前を通り過ぎる時に、魏延が蔡瑁の行動に激怒し暴れ始め、文聘と一騎打ちをしたなどの話があります。

しかし、これらは三国志演義のオリジナルの設定であり、史実には記載がありません。

正史三国志の魏延伝の記述を見ると、下記の記述があります。

「魏延の字は文長であり、義陽郡の人である。

一部隊長として先主(劉備)に随行し、蜀に入った。数多くの功績を挙げた事で、牙門将軍に任命された」

正史三国志の記述からは魏延が義陽郡の出身だとは分かりますが、どの様な経緯で劉備の配下になったのかは記載がなく不明です。

三國志演義では魏延は韓玄の配下であり、韓玄の首を切って劉備に投降した話がありますすが、これは史実ではないでしょう。

三國志演義で韓玄の首を差し出した魏延に対し、諸葛亮が「反骨の相」があると述べた話しもありますが、これも事実ではありません。

しかし、劉備が赤壁の戦いの後に荊州四郡の制圧に着手し、劉度趙範金旋、韓玄を降した時に、魏延が劉備の傘下に入ったと考える人は多いです。

魏延も黄忠の様に韓玄が劉備に降伏した事で、劉備の配下になった可能性がある様に思います。

尚、魏延は劉備の入蜀の時に、いきなり一部隊を指揮した記録がある事から、名士か豪族の出身であり、多数の兵士を率いて劉備に投降したのではないか?と考える人もいます。

 

牙門将軍となる

劉備は呉の周瑜が亡くなると、劉璋から益州を奪おうと行動を起こす事となります。

劉備は龐統を連れて、張魯征伐の名目で益州に入りますが、この時に魏延も同行していたのでしょう。

劉備と劉璋の対立が始まると、劉璋配下の劉循張任は奮戦しますが、劉備の勢力は各地で劉璋勢を圧倒しました。

劉璋の勢力を破った時に、一部隊を率いて奮戦したのが、魏延だったのでしょう。

馬超が劉備に帰順すると、劉璋は戦意を失くし益州を劉備に明け渡しています。

劉備は益州の支配者となると、魏延の活躍を認め牙門将軍に任命しました。

牙門将軍は雑号将軍ではありますが、牙門将軍に任命された人物は趙雲、魏延、王平しかおらず、蜀の代表的な武将が任命された将軍位だと言えます。

 

漢中太守に大抜擢される

漢中を奪う

劉備は益州を奪うと北上を始め法正や黄忠の活躍により、定軍山の戦いで夏侯淵を破り漢中を奪いました。

定軍山の戦いで魏延がどの様な活躍をしたのかは不明です。

しかし、この後に魏延が大抜擢される事を考えると、魏延は劉備の目に留まる様な活躍があったと考えられます。

一つの説としては、魏延が任命された牙門将軍は、牙旗を守るとされる牙門将と似た様な役割で、戦場では劉備の傍に魏延がおり、魏延の動きを間近で見ていた劉備が、多いに魏延を評価したとする話もあります。

漢中争奪戦で魏延が功績もなく漢中太守に任命される事は、考えにくく何かしらの功績が魏延にあったのは間違いないでしょう。

 

漢中太守に任命される

漢中は魏の勢力と領地を接し、最前線となる重要な地域でもあります。

この時に劉備陣営では関羽に荊州を任せていた事もあり、多くの人々が漢中太守には張飛が選ばれると思っていました。

張飛自身も自分が「漢中太守に任命される」と思っていた様ですが、劉備は魏延を督漢中、鎮遠将軍と兼務させる形で、漢中太守に大抜擢したわけです。

魏延の漢中太守就任は蜀の内部でも、皆が驚いた話があります。

劉備の勢力は漢(蜀漢)を名乗っているわけであり、漢中は他国に取られるのは非常にまずい地域です。

それにも関わらず劉備は魏延を漢中太守に抜擢しており、劉備の魏延に対する期待の大きさが分かります。

尚、劉備が張飛ではなく魏延を漢中太守にした理由に関しては、張飛の部下に対し厳し過ぎる性格を、危惧したとする説があります。

ただし、魏延に関してもプライドが高く、周りと強調する姿勢に欠ける事もあり、性格に関して言えば、どちらも問題があると言えるでしょう。

 

漢中太守の意気込みを語る

劉備は魏延を漢中の責任者として任命するにあたり、次の様に魏延に問いました。

劉備「其方に重要な任務を授けたいと思うが、任務に対してどの様に思うか述べて貰いたい」

劉備は魏延に対し、漢中太守への意気込みを訪ねた事になります。

魏延は次の様に答えました。

魏延「曹操自身が天下の兵を以って攻めて来たのであれば、大王(劉備)の為に守り通す所存です。

曹操の副将が10万の兵で攻めて来たのであれば、これを呑み込んでしまう所存です。」

劉備は魏延の言葉を喜び、周囲の者も魏延の言葉を見事だと感じたと記述されています。

この頃は魏延が、最も輝いていた時期だと言えるのかも知れません。

 

 

漢中の防御を固める

漢中太守となった魏延ですが、仕事ぶりを伺う事が出来る記述が姜維伝にあります。

「過去に先主(劉備)は漢中の抑えとして魏延を駐屯させた。

外からの敵を防ぐ為に、諸陣営に十分な兵を配置し、敵が来ても侵入出来ない様に心を配った。

興勢の役の時に曹爽に王平が対抗出来たのも、全てこの制度が続いていたからである」

上記の記述から、西暦244年の興勢の役の時に曹爽から漢中を守る事が出来たのは、劉備が構築した防御ラインがよく出来ていた事が分かります。

しかし、実際の劉備は成都にいたわけであり、漢中の防御ラインの構築に現場で指揮を執ったのが、魏延だったのではないかと感じました。

この辺りも魏延の有能さを物語っていると言えます。

魏延は己の武勇だけではなく戦略を立てたり、築城するのも得意だったのかも知れません。

 

劉備の死

関羽は曹仁が籠る樊城を攻めますが、徐晃らに敗れ呂蒙の策により孫権に捕らえられ斬首されました。

関羽が樊城の戦いや麦城の戦いでの敗北した事により、蜀は荊州での領地を全て失う事となります。

曹操が亡くなると、曹丕が献帝から禅譲により皇帝になった事から、劉備は漢の皇帝を名乗ります。

これにより蜀漢と呼ばれる国が建国されたわけです。

221年になると、劉備は馮習や張南らと共に、呉を攻撃しますが夷陵の戦いで陸遜に大敗してしまいます。

夷陵の戦いの時に、鎮北将軍の黄権が孤立し魏に投降した事で、魏延が鎮北将軍に任命され昇進しました。

劉備はそれから間もなく、白帝城で崩御しました。

魏延は劉備が亡くなった223年に都亭侯になった話がありますが、劉備の死は魏延にとって大きなショックでもあったのでしょう。

劉備の死後に劉禅が後継者となりますが、実際に政治を行ったのは諸葛亮です。

劉備と諸葛亮では性格の違いが多々あり、諸葛亮は有能な政治家ではありますが、大部分を自分でやってしまう事もあり、魏延は力を出し切れぬ様な状態が続く事になりました。

劉備の死は魏延にとって、ターニングポイントの一つではあった事は間違いないでしょう。

後年の魏延にとってみれば、劉備の時代を懐かしむ気持ちがあったのかも知れません。

 

長安急襲策

諸葛亮は劉備死後に蜀の国力の回復を数年で成し遂げる事となります。

この間に諸葛亮は南蛮征伐を行い孟獲を討つなど、蜀は国力を大きく回復させます。

諸葛亮は国内を安定させると、魏の領内に侵攻させる決断をし、出師の表を劉禅に出すなど、不退転の決意で北伐に臨みました。

魏略によれば諸葛亮の第一次北伐で、魏延が「長安急襲策」を述べたとする話があります。

長安急襲策は魏延が五千の兵を率いて、長安も守る夏侯楙を急襲し、一気に関中を支配下にする大胆な策です。

しかし、現在では長安急襲策は兵站の問題もあり、実現が難しいし「そもそも魏延ほどの武人が長安急襲策」など進言しないのではないか?と考えられる様になっています。

現実的な観点で言えば、長安急襲策は絵に描いた餅であり、実現は難しいと言わざるをえないでしょう。

 

魏延の策

魏延の長安急襲策は現実的な策ではないと考えられていますが、魏延は別のプランを諸葛亮に提示していたのではないか?と思える記述があります。

下記は正史三国志の魏延伝の記述の一文です。

「魏延は諸葛亮に従って出陣するたびに、毎回、1万の兵を率いさせて欲しいと願った。

魏延は諸葛亮と違う道を通り、潼関で落ち合い韓信の故事に倣いたいと要請したが、諸葛亮は許さなかった」

魏延としては漢中を支配下に治めたのは、劉邦項羽により漢中王になったのと同じだから、劉邦が韓信を用いて章邯、司馬欣、董翳などを降したやり方で、関中を手にすればいいと考えたのでしょう。

諸葛亮は三国志演義のイメージでは張良ですが、実際には蕭何の様な人物で在り、魏延は自身を韓信にもなぞらえていたのかも知れません。

尚、諸葛亮の北伐では空城の計の話がありますが、正史三国志の注釈にも掲載されている話です。

しかし、空城の計の話は、正史三国志の本文の記述で、諸葛亮が1万の兵を魏延に与えていない事から、裴松之は事実ではないと述べています。

 

諸葛亮と魏延

諸葛亮と魏延は不仲だったように思われがちです。

実際に魏延伝では、下記の記述が存在します。

「魏延は常に諸葛亮の事を臆病だと思っており、自分の才能が十分に発揮できない事を嘆き恨んでいた」

上記の記述から魏延は諸葛亮の事をよくは思ってはいなかったのでしょう。

諸葛亮は劉備と違い自分で何でも背負い込んでしまう性格であり、魏延としてみれば、もどかしさが多々あったのでしょう。

ただし、諸葛亮自身は魏延の勇猛さを頼みとしていた話があります。

諸葛亮としてみれば、魏延を目障りに思った事もあるのかも知れませんが、魏延の能力を高く評価していたのでしょう。

尚、三国志演義の様に戦場で諸葛亮が馬岱を使って、司馬懿と共に魏延を亡き者にしようとした話は史実ではありません。

諸葛亮としてみれば魏を倒す事が第一であり、魏延の勇猛さを頼りにしていたのが実情だと感じました。

 

第一次北伐

涼州刺史

諸葛亮は227年に第一次北伐を敢行しました。

この時に、魏では曹丕が亡くなり、青年君主である曹叡が即位していたわけです。

第一次北伐の時に、魏延伝に下記の記述が存在します。

「魏延を督前部に任命し、丞相司馬、涼州刺史を兼務させた」

上記の記述から第一次北伐の時の魏延の役職が、督前部、丞相司馬、涼州刺史だった事が分かるはずです。

第一次北伐の時に、涼州は魏の領地であり、蜀の領地ではありません。

しかし、皇帝は全ての領土を保有するのが当然とした考えがあり、当時では他国の領土を自分の領地の如く役職を任命する事は珍しくなかったわけです。

魏延の涼州刺史に着目すれば、諸葛亮の第一次北伐では、隴西の游楚などは蜀に靡きませんでしたが涼州の三郡が蜀に通じるなど、蜀が涼州を支配下に出来る可能性もあったと見るべきでしょう。

諸葛亮が魏延を涼州刺史にしたのは、諸葛亮が第一次北伐で涼州を支配下に出来れば、魏延を涼州の責任者として、配置しようと考えていた可能性もあるはずです。

 

馬謖の失態

諸葛亮の第一次北伐では、諸葛亮の本隊が祁山を攻撃し趙雲鄧芝が曹真への陽動となり斜谷道方面に進出する事となります。

魏の曹叡は張郃を派遣し、救援に向かわせました。

蜀では軍議が行われ張郃の相手を誰にするのか?話し合う事となります。

張郃の相手と言っても、張郃から勝利を収める必要はなく、張郃を足止めすれば十分だったわけです。

それでも、これが失敗すれば第一次北伐の計画が瓦解してしまう事もあり、馬良伝によれば蜀軍内で多くの者が、ベテランの魏延か呉懿が選ばれると思っていました。

しかし、諸葛亮は魏延や呉懿などのベテランの将軍ではなく、馬謖を選んだわけです。

馬謖が選ばれた時に、魏延はかなり歯がゆい思いをしたのではないかと思われます。

馬謖は張郃を迎え撃ちますが、山の上に布陣した事もあり、水源を断たれ街亭の戦いで大敗北を喫しました。

魏延なら絶対にやらないミスを馬謖はやってしまったとも言えるでしょう。

この時の馬謖の負け方が余りにも酷かったのか、諸葛亮は馬謖を処刑しました。

これが「泣いて馬謖を斬る」の故事になっています。

尚、馬謖が敗れた事で第一次北伐の敗北は決定し、魏延の実質を伴った涼州刺史就任も水泡となったわけです。

 

第二次・第三次北伐

諸葛亮は第二次北伐では陳倉の戦いで、郝昭を攻めきれずに撤退しました。

第三次北伐では陳式が武都、陰平の二郡を平定しただけの小さい戦果に留まる結果となっています。

第二次北伐と第三次北伐で、魏延が何をしていたのかは、不明であり分かっていません。

しかし、魏延の軍事能力は蜀軍の誰しもが認める所であり、名前がないだけで参陣していた様に思います。

 

子午の役

230年に魏の曹真が蜀に対し攻勢に出ました。

曹真の蜀への攻撃は子午の役とも呼ばれていますが、魏の国内では陳羣と華歆が難色を示します。

しかし、最終的には皇帝の曹叡が曹真の意見を採用し、魏が蜀を攻撃したわけです。

この時に、魏では曹真が子午谷道から攻撃し、張郃が斜谷道、司馬懿が荊州方面、郭淮が涼州方面から蜀に侵攻しました。

魏軍が関中から漢中に行くには秦嶺山脈を越える必要があり、魏の夏侯覇が苦戦し、天候に恵まれなかった事から曹真、張郃、司馬懿らは撤退を余儀なくされています。

しかし、この時に西部方面では魏延と郭淮が戦った事が分かっています。

正史三国志の魏延伝によれば、次の記述が存在します。

「魏延を西方の羌中に侵攻させた。

魏延は魏の後将軍・費瑶と雍州刺史の郭淮と陽谿で戦った。

陽谿で魏延は郭淮らを破った」

230年に魏が蜀に対し四カ所から攻撃した子午の役では、魏延が一番の功績を挙げたと言ってもよいでしょう。

尚、陽谿の場所を考えると魏延は敵地の奥地まで侵入し、郭淮を破ったはずです。

魏延は陽谿の戦いの功績により前軍師・西征大将軍・仮節となり南鄭侯になりました。

諸葛亮と魏延は不和だった話もありますが、諸葛亮は魏延の功績を認めて多大なる恩賞を与えたとも言えるでしょう。

陽谿の戦い関しては季漢輔臣賛にも僅かな記録があり、この戦いに呉懿も参陣していた様です。

 

第四次北伐と李厳の解任

翌年に第四次北伐を諸葛亮は決行し、祁山方面に侵攻しましたが、李厳の漢中からの兵站が続かず撤退に追い込まれています。

ただし、第四次北伐で蜀軍は諸葛亮が魏延、高翔、呉班に守らせ、追撃してきた張郃を射殺する戦果を挙げています。

蜀軍が漢中に戻ると、李厳が誤魔化しの報告を入れた事が問題になりました。

李厳の処罰に対し、諸葛亮は諸将と共に協議を行い、この中に「使持節・前軍師・征西大将軍・領涼州刺史・南鄭侯の臣魏延」の名があります。

魏延は李厳の嘘に対しては、許さない立場を取っていたのでしょう。

魏延の様なプライドが高く仕事はしっかりと行う人間にとってみれば、李厳のやった事をよくは思わなかったはずです。

尚、下記が李厳の処罰に対し協議した蜀の群臣の一覧となります。

劉琰 ・魏延 ・袁綝 ・呉壱 ・高翔

・呉班 ・楊儀 ・鄧芝 ・劉巴 ・費禕

・許允 ・丁咸 ・劉敏 ・姜維 ・上官雝

・胡済 ・閻晏 ・爨習 ・杜義 ・杜祺

・盛勃 ・樊岐

尚、234年に第五次北伐が行われますが、魏延を知る上でのキーポイントとなる性格や人間関係を先に解説します。

 

魏延の性格

正史三国志に魏延の性格に関しての記述があります。

「魏延は士卒をよく訓練し、人並外れた勇猛さを併せ持っていた。

魏延は誇り高い性格をしており、当時の人々は魏延を避け遜って接していた」

魏延は兵士の訓練をしっかりと行い、仕事に関しては日々の努力を忘れない人だったのでしょう。

しかし、自分の能力を誇り、周りの人々からは一目置かれるも、距離を置かれていた事が分かります。

季漢輔臣賛には、次の記述が存在します。

文長(魏延)は猛々しさがあり、危機を受け命令を受けると、外敵をよく防ぎ国境を守り抜いた。

しかし、人と協調する事はなく、節義を忘れて反乱を意思を示した。

最後の行為を憎み最初の功業を惜しむと感じるが、実際には魏延の性格から出たものである。

季漢輔臣賛の記述を見ても、魏延は勇敢で懸命に仕事を行うが、性格に問題があった事を指摘しています。

 

魏延と楊儀

魏延は多くの人から一目置かれた一方で、文官の楊儀だけは魏延を認めなかったのでしょう。

魏延伝には下記の記述があります。

「楊儀だけは魏延に対しても容赦せず、魏延は楊儀に対して怒りを抱いていた。

魏延と楊儀は水と火の様に相いれない関係だった」

魏延は楊儀を嫌い、楊儀も魏延を嫌っていたのでしょう。

諸葛亮は魏延に対して「扱いにくい」と感じたかも知れませんが、憎いんではいなかった様に思います。

楊儀伝には諸葛亮が、魏延と楊儀の仲を残念がった話もあります。

正史三国志費禕伝に魏延と楊儀に関する記述があります。

軍師の魏延と長史の楊儀が憎み合い同じ席で争論をすれば、魏延は刃を振り上げて楊儀に突きつけ、楊儀は涙を流す有様だった。

費禕は魏延と楊儀の間に割って入り、諫め論して別れさせた。

諸葛亮が亡くなるまで魏延と楊儀が力を発揮できたのは、費禕の手助けがあったからだ。

この記述から魏延と楊儀の仲は最悪であり、費禕が間に入ったから、何とか回っていた事が分かります。

董允伝の注釈・襄陽記によれば、費禕が董恢と共に呉に行った時に、孫権は酒に酔って、魏延と楊儀の仲の悪さを指摘した話があります。

この時に、董恢が機転を利かせた発言をしましたが、魏延と楊儀の仲の悪さは、隣国の呉まで届いていた事になるはずです。

襄陽記の話が真実であれば、魏延と楊儀の仲の悪さは隠しようがなかったとも言えます。

 

不思議な夢

西暦234年に第五次北伐が行われました。

諸葛亮と司馬懿が対峙した五丈原の戦いとなるのですが、魏延伝には次の記述があります。

「諸葛亮は北谷口に出陣した。魏延が先陣となった。

諸葛亮の軍営から十里離れた所で、魏延は頭に角が生える夢を見た」

魏延は第五次北伐の時に、先陣となりますが、不思議な夢を見たわけです。

魏延は夢占いの趙直に相談すると、趙直は不吉な夢にも関わらず、魏延に対して「賊軍が自滅する夢」と嘘の話をしました。

趙直は魏延の性格を知っており、変な事を喋れば面倒な事になると感じ、嘘の結果を報告したのでしょう。

 

諸葛亮の遺言

第五次北伐は別名として五丈原の戦いと呼ばれています。

五丈原の戦いで諸葛亮は魏の司馬懿と対峙している最中に亡くなりますが、遺言として、次の話が残っています。

「秋、諸葛亮は病気に苦しんだ。

内密に長史の楊儀、司馬の費禕、護軍の姜維らに、自分が亡くなった後の軍の撤退指示をした。

諸葛亮は魏延に敵の追撃を阻止させ、姜維にはその前を行かせ、魏延が命令に従わない場合は、そのまま出発する様に命じた」

諸葛亮は亡くなる前に楊儀、費禕、姜維に軍を撤退させる様に命じたわけです。

この席に魏延がいないのは、魏延は前線におり、諸葛亮の本陣まで行く事が出来なかったとも考えられています。

魏延の目の前には戦う気がないとはいえ、魏軍がおり陣を離れる事が出来なかったとする説です。

諸葛亮の遺言とも取れる言葉からは、魏延が命令に従わない事が視野に入っています。

諸葛亮は魏延に対し「皆が撤退すれば魏延も撤退してくれる」と期待したのかも知れません。

諸葛亮にとってみれば「魏延よ。頼むから命令を聞いてくれよ」と願った可能性もあるでしょう。

しかし、魏延は諸葛亮の願いとは違う行動を取ってしまいます。

 

費禕の虚言

諸葛亮は亡くなりますが、諸葛亮の喪は発表せず、楊儀は費禕に命じて魏延の元に行かせました。

費禕は人間関係の調整が得意であり、魏延ともそれほど険悪な仲ではなかったのでしょう。

費禕は魏延に諸葛亮の死を告げ、どの様に考えているのか確認すると、魏延は次の様に返しました。

魏延「丞相(諸葛亮)が亡くっても、儂はまだ健在である。

役人たちは丞相の遺体を運び帰国し、埋葬するがよい。

儂は自ら軍を率いて賊軍を討ち果たそうと考えておる。

丞相一人の死で天下の事業を中断する訳には行かない。

この魏延が楊儀などの指示に従い、殿(しんがり)など行えるはずもなかろう」

魏延は費禕に、五丈原に残り司馬懿との対峙を継続する事を主張したわけです。

魏延は費禕と帰国する部隊と残留する部隊の仕分けを行い、費禕と魏延の連名で告示しました。

費禕は魏延に次の様に述べます。

費禕「貴方(魏延)の為に戻って楊長史(楊儀)を説得します。

楊儀は文官ですから、軍事の経験は少なく命令に背くとは思えません」

費禕は魏延の元を去りますが、魏延は費禕の様子がおかしいと判断し、後を追わせますが費禕には追いつけず後悔しました。

費禕の言葉は虚言であり、費禕は魏延に従うつもりは全くなかったわけです。

 

魏延の謀反

魏延は蜀軍本隊の様子が気になり、探らせると諸葛亮の指示に従い撤退を始めている事に気が付きました。

魏延は激怒し、楊儀が出発しないうちに、自分の率いていた軍で先回りをして、桟道を焼き払い通れなくしたわけです。

魏延の行為は楊儀を恨んでの行為だったとも考えられますが、蜀軍の本隊に危害を加えている事から、謀反とも取れる行動となります。

魏延と楊儀は共に、劉禅に対し、それぞれが謀反を起こしたと上奏し訴えました。

劉禅は回答に困り董允と蔣琬に相談すると、董允も蔣琬も楊儀の意見が正しいとしたわけです。

蔣琬は軍を率いて北方に向かいました。

これにより、魏延は謀反人となってしまいます。

 

南谷口の戦い

魏延は楊儀との決戦を決意し、南谷口に陣を布きます。

これが南谷口の戦いです。

楊儀は王平(何平)を前方に配置し、魏延と対峙させました。

蜀漢きっての勇将である魏延と文官の楊儀では、軍隊の指揮能力で言えば魏延が圧倒していたはずです。

しかし、王平が魏延の軍に向かい、魏延の非を叫ぶと魏延の軍は逃亡者が続出し、魏延は軍を維持する事が出来なくなります。

これにより魏延の敗北は決まり、魏延は逃亡したわけです。

 

魏延の最後

魏延は息子達数人と漢中に出奔しました。

魏に投降するのではなく、蜀の領内である漢中に出奔したのは、魏延にとってみれば弁明したい気持ちもあったのでしょう。

楊儀は馬岱に命じて、魏延の追跡を行わせ、馬岱は魏延を斬首する事に成功しました。

これにより魏延は命を落とす事になったわけです。

魏延の首が楊儀の元に届くと、楊儀は魏延の首を踏みつけ、次の様に述べた話があります。

楊儀「馬鹿野郎。もう一回悪い事が出来ると思ったら、やってみやがれ」

楊儀もかなり魏延に対し、鬱憤が溜まっていたのでしょう。

楊儀の魏延に対する態度もかなり酷いと言えます。

魏延の三族も処刑されてしまいます。

魏延と犬猿の仲だった楊儀ですが、蔣琬の時代になると性格が問題視され、窓際族となり、最後は費禕の告げ口とも言える上奏で、命を落としました。

魏延同様に楊儀も、普通に死ぬ事は出来なかったと言えます。

因みに、魏延と楊儀の死と大きく関係した費禕は、後に大将軍となり蜀で劉禅を除けば最も尊貴な身分となりました。

 

魏延は反逆者ではなかった

魏延伝において、陳寿は次の様に述べています。

「魏延の心情を考えてみるに、北に向かい魏に行こうとせず、南の漢中に向かったのは、楊儀を取り除きたかったと望んだだけなのである。

魏延は常日頃から諸将の同意を得る事が出来ず、当時の世論が諸葛亮の後継者として自分が望まれる事を期待した。

魏延の本来の考えは、この様なものであり、反逆したかったわけではないのである」

陳寿の言葉ですが、自分はかなり当たっている様に思います。

魏延には、劉禅に代わり自らが皇帝になろうとする野心は微塵もなかったと感じました。

さらに言えば、蜀に対しても高い忠誠心を持っていた様に思います。

楊儀との仲が原因で、結果的に謀反人にされてしまっただけだと感じました。

ただし、陳寿は魏延の事を「勇猛を以って用いられたが、身から出た錆び」という評価も与えています。

 

魏延の諸葛亮の異説

魏略に魏延の最後に関する異説が掲載されているので紹介します。

魏略によれば諸葛亮が病気になると、魏延らに向かって次の様に述べます。

諸葛亮「儂が死んだあとはひたすら守りを重視し、慎んで再びここに来る事がない様にせよ」

さらに、諸葛亮は魏延に職務を代行させ、秘密裡に自分の遺体を運び出せと命じました。

この記述を見ると諸葛亮は自分の後継者に魏延を指名しているわけです。

魏延は諸葛亮の死を隠し行軍し、褒口まで来ると諸葛亮の喪を発表しました。

魏延は諸葛亮の後継者として動いたわけですが、魏延と犬猿の仲だった楊儀は不安になります。

楊儀は魏延が魏に味方しようとしていると宣伝し、軍を使って魏延を攻撃しました。

魏延は魏に寝返る気持ちも無かった事から、戦わずして軍が逃走し、追撃され殺害されたとあります。

魏略の記述からは、正史三国志とは違った展開が見受けられるわけです。

しかし、魏略が成立したのは蜀が滅亡する前だともされており、魏の国内での噂を書いただけとする話もあります。

裴松之は魏略の諸葛亮の後継者が魏延だった話は、議論するまでもないと書き残しました。

魏略の話は信憑性に欠けると、裴松之は考えたのでしょう。

 

魏延の能力値

三国志14統率84武力92知力69政治46魅力39

 

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