句安は正史三国志や三国志演義に登場する人物です。
句安は最初は蜀漢に仕えますが、249年に麴城の戦いがあり、魏の陳泰に降伏しました。
魏に降伏してからは、魏の将軍となっており、鍾会や鄧艾の蜀漢征伐にも従軍しています。
句安は確かに蜀から魏に移りましたが、決して裏切ったわけではなく、成り行きで仕方なく魏に降っています。
句安と共に戦った李歆も含めて、最初から裏切ろうと思っていたわけではないでしょう。
この辺りは、黄権とも似ていると感じました。
今回は蜀と魏の両方に仕えた武将である句安を解説します。
尚、蜀漢には王平、廖化、張翼と並び称された句扶がいますが、句安との関係は不明です。
麴山の守備
蜀漢で費禕が政務を執っていた時代である西暦249年に魏では高平陵の変が起き、司馬懿が実権を握り皇族代表でもある曹爽が処刑される事となります。
高平陵の変では身の危険を感じた夏侯覇が蜀に亡命しました。
費禕は北伐には反対ではありましたが、衛将軍の姜維が魏に軍を進める事となります。
姜維は麴山に二つの城を築き牙門将の句安と李歆に守らせました。
この時の句安と李歆は麴山を使って強固な防御陣地を築いたと思われますが、蜀は諸葛亮の時代からの難題である食料が不足している状態だったわけです。
句安らにしてみれば、魏が攻撃を仕掛けて防戦し、その間に蜀軍の本隊を率いている姜維に何とかして欲しいと考えていたのでしょう。
しかし、魏の陳泰は蜀軍の状況を適切に分析していました。
魏に降伏
郭淮が陳泰に意見を求めると、陳泰は兵糧攻めで麴城の戦いに勝てると述べました。
陳泰は徐質と鄧艾に句安と李歆が守る麴城を包囲させました。
もちろん、運送路や城外の漢水との連絡を断ち切らせています。
句安らは兵糧が少なく心許ないので、魏の鄧艾や徐質を挑発し決戦に挑もうとしますが、陳泰の作戦が徹底しており魏軍は取り合いませんでした。
麴城の状態では食料だけではなく水も不足し、雪を集めて水の代わりとした話まであります。
姜維は句安や李歆を救う為に動こうとしますが、郭淮が陽動を仕掛け退路を断とうとした事で、姜維は麴城への救援は不可能だと考え撤退しました。
姜維が撤退してしまった事で、句安らは援軍のない孤立無援の籠城となってしまい食料も少なかった事で、勝てる見込みはゼロとなってしまいます。
句安は李歆と共に魏に降伏しました。
句安らは魏に降伏はしましたが、寝返ったという事はなく、やるべき事はやったが仕方がなくの降伏だったはずです。
蜀漢の人々が句安を責める事は出来ないと感じました。
ただし、救援に来てくれなかった姜維ら、蜀漢の人々を句安や李歆が恨んだのか、どうかなどは伝わっていません。
蜀の滅亡
263年に鍾会は鄧艾と共に蜀を攻撃しました。
この時の魏軍の中に句安もいたわけです。
姜維が剣閣の戦いで奮戦しますが、間道を通った鄧艾が綿竹の戦いで諸葛瞻を破り、成都の劉禅を降伏させました。
姜維は劉禅が降伏した事を知ると、鍾会の元に出頭しています。
鍾会は司馬昭に上表文を送っており、その中に次の一文があります。
※正史三国志 鍾会伝より
将軍の句安に敵を負わせ
上記の記述から、蜀の滅亡の時の魏軍の中に句安の名前が確認出来ます。
句安は蜀にいたはずであり、道案内などの役目もした可能性もあるはずです。
蜀が滅亡した時に鄧艾と鍾会の二軍がいた事が分かっていますが、鍾会の上表文を見る限りでは、句安は鍾会の軍に配属されていたのでしょう。
これが句安の最後の記述であり、句安が蜀の滅亡をどの様な目で見ていたのかは不明としか言いようがありません。