三国志 魏(三国志)

剣閣の戦い

2023年5月13日

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宮下悠史

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剣閣の戦い(けんかくのたたかい)西暦263年
勢力
指揮官姜維鍾会
兵力不明不明
損害不明不明

剣閣の戦いは正史三国志にも記載されている戦いであり、実在した戦いです。

三国志の蜀の滅亡時での戦いであり、姜維らが剣閣に籠城し鍾会の大軍を迎え撃ちました。

姜維らの守備は固く鍾会は攻めあぐむ結果となります。

しかし、険しい間道を通って蜀の中枢を目指した鄧艾が綿竹の戦いで諸葛瞻を破り、成都の劉禅を降伏させました。

これにより姜維は鍾会に降伏し、剣閣の戦いは結着が尽きました。

姜維ら剣閣守備隊は劉禅の降伏を聞いた時に、刀を石で斬った話があり、余力を残していた事は明らかでしょう。

今回は剣閣の戦いを解説します。

剣閣の戦いの直前の状況

西暦256年に行われた段谷の戦いで、蜀は魏に大敗しました。

これにより蜀は国力を大きく落とし、さらに、北伐推進派の陳祗が亡くなった事で、姜維を支持する者が皆無といった状況となります。

姜維も成都にいるのは危険と感じたのか、沓中に屯田に行くと述べ成都を後にしました。

魏では曹奐の時代となっていましたが、実権を握っている司馬昭は蜀討伐を考えていました。

魏では諸葛誕の乱以降に目立った反乱もなく、国力を回復させる事が出来たので、蜀を攻撃しようと考えたのでしょう。

呉の方では孫休の時代となっていましたが、司馬昭は船を建造し疫病が発生する確率が高い呉よりも、先に蜀を滅ぼした方がいいとする結論が出ました。

しかし、司馬昭の意見に賛同する魏の群臣は殆どおらず、かろうじて鍾会が賛成した位だったわけです。

後に蜀を滅ぼす事になる鄧艾であっても、蜀征伐には反対しました。

司馬昭は沓中にいる姜維を鄧艾に牽制させ、その隙に漢中を奪取しようと考えており、鄧艾が出陣しないとなれば作戦が既に崩壊している事になります。

司馬昭は師簒に鄧艾を説得させ、鄧艾は納得に応じ蜀征伐への従軍が決定しました。

これにより曹奐が蜀討伐の詔勅を発行し、西暦263年に魏は蜀を滅ぼすべく行動に移しました。

これが剣閣の戦いの前段階です。

魏の動きを姜維もキャッチしており、劉禅廖化張翼に軍を率いらせ防備を固める様に意見しますが、宦官黄皓により揉み消されたと伝わっています。

蜀は遅れて防備を固める事態となります。

司馬昭は反対派の鄧敦を斬り軍を進発させました。

剣閣に籠城

鍾会、鄧艾、諸葛緒や監軍の衛瓘らは、それぞれの道から蜀に向かって進軍を始めました。

この時の魏軍は総勢18万もの大軍だったとも伝わっています。

この軍の中には杜預や胡烈も従軍していました。

鄧艾が南下し鍾会が駱谷を通る頃に劉禅ら蜀の首脳部は、廖化張翼、董厥らに命じ慌てて防備を固めています。

呉でも同盟国の蜀を救う為に、孫休が丁奉や孫異の軍を動かし魏の領内に進攻した話もあります。

魏では魏興太守の劉欽も漢中を目指すなど、大軍が漢中に向かいました。

尚、鍾会の馬が足をとられるなどもあり、許褚の子である許儀が処罰を受けるなどの逸話も残っています。

鍾会は李輔に楽城の王含、荀愷には漢城の蔣斌の抑えとして配置し、自らは軍を前進させ駒を進めました。

鍾会は胡烈に陽安関を攻撃させ、防備を任されていた蜀の蒋舒は魏軍に寝返り、傅僉は城を枕に討死しています。

蜀軍は漢中の守りを魏延の計画したものから、姜維は代えていたわけですが、裏目に出る事になります。

しかし、蜀漢の方でも柳隠が奮戦するなどの見せ場もありました。

鄧艾の方では沓中にいた姜維の動きを釘付けにする為に、楊欣、牽弘、王頎らを派遣し、諸葛緒が姜維の退路を断とうとします。

姜維は敗北をしながらも、漢中まで戻る事に成功しました。

姜維は諸葛緒をかわす形で陰平橋頭を通過し、ここにおいて陽安関が陥落した情報を姜維はキャッチし白水方面に向かいます。

ここで劉禅が派遣した張翼、廖化、董厥らと合流し、剣閣で籠城する事になりました。

これにより姜維と鍾会の間で剣閣の戦いが勃発します。

姜維の巧みな守り

剣閣は諸葛亮が大剣山から小剣山までの三十里に穴をあけ整備した閣道を指します。

大剣山に剣門関があり、この辺りで姜維張翼廖化、董厥らと防備を固めたと考えられています。

この剣閣に鍾会が攻撃を加えたのが剣閣の戦いです。

姜維ら蜀軍の守は巧みであり、鍾会は剣閣を攻め落とす事が出来ませんでした。

鍾会が剣閣で姜維に苦戦しているとする報告は、陰平にいた鄧艾を通じて魏の首脳部にもたらされます。

ここで鄧艾が陰平から涪を急襲する案を出し、魏の朝廷を通じて鍾会にも知らされた事でしょう。

鍾会も田章らを江油に派遣するなどもしています。

姜維らは剣閣で奮戦し、鍾会の軍を寄せ付けませんでした。

鍾会の手紙

鍾会は剣閣を攻めあぐみ、姜維に対して手紙を送り懐柔しようとしました。

※正史三国志 姜維伝より

あなたは文武両道の才能を持ち、世の人を凌ぐ才能を抱き、功は巴・漢の地で挙げられ名声は中華の地まで鳴り響いている。

遠くの者も近くの者も貴方に心を寄せないものはおりませぬ。

過去に思いを馳せる度に、過去には国が異なっても大きな理想に志を同じとしました。

呉の季札と鄭の子産と同じ様に国は異なっても、友好は結びたいものです。

鍾会は姜維を持ち上げ、懐柔しようとしたのでしょう。

姜維は鍾会に返事も出さず、ひたすら防備を固めました。

鍾会の方では遠方から食料を運んでいた事もあり、剣閣を抜けず撤退も考え周囲に相談する様になります。

ここまでを見れば、姜維の剣閣での守備は完璧ともいえる状態だったはずです。

剣閣の放棄

剣閣で姜維が奮戦し、鍾会が苦戦していた頃に、突如として鄧艾が江油に出現しました。

これにより江油にいた蜀将の馬邈は鄧艾に降伏する事になります。

鄧艾は、さらに進軍し綿竹の戦いでは諸葛瞻と諸葛尚の親子を撃破し、成都の劉禅は譙周の進言により降伏しました。

剣閣にいた姜維は諸葛瞻の敗北を知ると、姜維は真意を確かめる為に、剣閣を後にします。

姜維の剣閣放棄により、剣閣の戦いは終了したわけです。

剣閣を後にした姜維は軍勢を率いて成都を目指しますが、鍾会は句安らに追撃させ、自らは夏侯咸、胡烈らに先鋒を任せ成都を目指しました。

姜維が劉禅の元に向かい広漢の辺りで、劉禅から降伏の勅令が降ります。

姜維は劉禅の勅令を受けて、真相を知り涪にいる鍾会への降伏を決めます。

刀で石を叩き割る

この時に、将兵は怒りの余り刀を抜いて石を叩き割った話があります。

刀で石を叩き割ったのは蜀の剣閣守備隊であり、剣閣を守っていた軍勢の士気がまだまだ高かった事が分かります。

剣閣守備隊に取ってみれば、自分達は力の限り戦ったのに、後方の蜀軍が敗れた事で敗者となってしまい、やりきれない気持ちになってしまったのでしょう。

姜維が降伏を決断し、兵士達が刀で石を叩き割った時点で、蜀の戦力は崩壊し蜀漢は滅亡したとも言えます。

この後に姜維は蜀の復興を考え鍾会をそそのかしますが、結局は鍾会と共に滅びました。

姜維と共に剣閣を守備していた張翼も鍾会の乱で命を落します。

廖化と董厥は洛陽に移住する事になり、廖化は洛陽に向かう途中で病死し、董厥のその後は不明です。

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