許慈は正史三国志の杜周杜許孟来尹李譙郤伝に伝が立てられている人物です。
許慈伝の内容は非常に薄いのですが、大半は同じく学士となった胡潜とのいざこざに費やされています。
胡潜の記事でも書きましたが、許慈と胡潜の仲は非常に悪く、感情を剥き出しにしてお互いを罵りあっていた話まであります。
劉備は許慈と胡潜の関係を残念がり、芸人を使い二人を反省させようとしました。
蜀で仲が悪かった人物と言えば魏延と楊儀が有名ですが、許慈と胡潜もかなり仲が悪かったと言えるでしょう。
許慈の字は仁篤であり情け深く情に厚い感じがしますが、実際の許慈はとても仁の人とは言えません。
尚、許慈伝が収録されている杜周杜許孟来尹李譙郤伝には、下記の人物が描かれています。
杜微 | 周羣 | 杜瓊 | 許慈 | 孟光 |
来敏 | 尹黙 | 李譔 | 譙周 | 郤正 |
正統派の学者
正史三国志によれば許慈は南陽の出身だとあり、荊州の人だったのでしょう。
許慈は劉煕に師事し鄭玄の学問を学び「易」「尚書」「三礼」「毛詩」「論語」を学んだとあります。
劉煕の弟子としては呉に仕えた薛綜がおり、薛綜は非常に弁が立つ人物であり、蜀漢の費禕の前でも機転を利かせた発言を行った人物でもあります。
しかし、薛綜と許慈の間での逸話は残っていません。
許慈は鄭玄の学問を学んだはずですが、蜀漢の孫乾は鄭玄の弟子でもあります。
ここでも許慈と孫乾の逸話は残っておらず、どの様な関係性だったのかも分かっていません。
正史三国志によると許慈は許靖と共に交州から蜀に入ったとあります。
許靖は交州の士燮の元に逃れていた事がありますが、許慈も戦乱を避けて逃れたのでしょう。
許慈と許靖は同じ「許姓」ですが、関係性は不明です。
尚、許靖が蜀に移ったのは劉璋の時代であり、許慈も劉璋の時代に蜀に入ったと考える事が出来ます。
許慈の経歴を見ると分かる様に、鄭玄の学問を学び名士の許靖と行動を共にする辺りは、正統派の学者だったと言えるでしょう。
それに対し、ライバルの胡潜は学識はないが、記憶力が抜群と言った人物だったわけです。
許慈は益州で正反対の人物とも言える胡潜と出会う事になります。
劉備流の反省のさせ方
劉備は蜀を平定すると許慈と胡潜を学士に任命しました。
劉備としては許慈の学識の高さと胡潜の記憶力の高さを評価し、学士に任命したのでしょう。
しかし、許慈と胡潜は能力はあれど譲り合う事を知らなかったわけです。
正史三国志によれば許慈と胡潜はお互いを嫉妬し、激しく罵り合い時には鞭をふるい相手を脅したとあります。
劉備は許慈と胡潜の関係を見て哀れに思い、お互いを反省させようと考えました。
劉備は大宴会を催した時に、芸人に許慈と胡潜の姿で登場させ、芸人に争う様を真似させたわけです。
劉備は宴会で音楽を演奏する時に、芸人に許慈と胡潜の真似をさせ、最初は言葉のやり取りから、最後は武器を手に取り相手を屈服させる様まで見せたと言います。
正史三国志だと劉備が二人を反省させたと書かれてありますが、本人たちが本当に反省したのかは不明です。
因みに、呉でも甘寧と淩統の仲が悪く、孫権は甘寧と淩統の仲を気にして、職場を離す様に手配した話があります。
劉備も孫権の様に後に、許慈と胡潜の職場を離したのか分かっていません。
劉禅に仕える
劉備は西暦221年に帝位に就きますが、許靖、糜竺、諸葛亮、頼恭、黄柱、王謀からの上奏文がありました。
その中で「博士の許慈、議郎の孟光に即位の儀式を取り定め」とあります。
劉備は蜀漢の皇帝となり、この時に許慈も何らかの仕事をしたのでしょう。
胡潜は劉備の時代に亡くなってしまった様ではありますが、許慈は劉禅にも仕えた話があります。
許慈は劉禅の時代に出世を重ね大長秋にまでなり、亡くなりました。
許慈の子に許勛がおり博士になったとありますが、許勛の業績に関しては不明です。
許慈は劉璋の時代からの人ですから、蜀の滅亡を見ずに劉禅の時代に亡くなったと考えるのが妥当でしょう。