名前 | 孟他(もうた)、不令休、孟佗、伯郎 |
生没年 | 不明 |
時代 | 後漢 |
孟他は正史三国志の魏書・明帝紀に記録がある人物であり、蜀の劉璋や劉備、魏の曹丕に仕えた孟達の父親でもあります。
孟他は霊帝の時代に、絶大なる権力を持った宦官の張譲に賄賂を送ろうとしますが、額が足りず頓挫しました。
そこで、孟他は賄賂の贈り先を張譲の家の使用人に変え、最終的に涼州刺史に任命されています。
孟他と孟達のやり方を見ていると「この親にしてこの子あり」というのが、非常によく当てはまるとも感じました。
尚、孟達に関しては劉封伝に詳しく、孟他に関しても劉封伝に記述がある様に思うかも知れません。
しかし、孟他の記述があるのは明帝紀なので、間違わない様にしてください。
分かりにくい名前
三輔決録によれば、伯郎は涼州出身者で名前が不令休だとされています。
これが本当だとすれば、孟他は三国志の世界では、非常に珍しい三文字の名前という事になるはずです。
しかし、不令休に関しては分かっていない部分もあり「名前ではない」などの異説も唱えられています。
三輔決録には注釈があり、その注によれば姓は「孟」で名が「他」で扶風郡の人だとあります。
尚、後漢書には孟佗となっており、どれが正しいのかは分からない状態でもあります。
ただし、孟達の父親だと言う事ははっきりとしており、実在した事は間違いないでしょう。
孟佗の逸話は面白い話だとは思いますが、時代が一世代前だと言う事もあり、三国志演義には登場しません。
効果的な賄賂で涼州刺史となる
賄賂が足りない
霊帝の時代ですが、霊帝の宦官愛が強く張譲や趙忠が絶大な権力を持っていました。
中常侍の張譲に権力が集中していたわけです。
張譲は賄賂に弱い男でもあり、孟他も張譲を利用して仕官しようと考えました。
張譲の口利きで仕官しようとする者や、出世しようとする者が山ほどおり、門の前には列が出来ていた状態だったわけです。
しかし、孟他の財力では張譲を満足させられるだけの資金が無く、孟他は張譲に面会する事すら出来ませんでした。
そこで、孟他は知恵を絞り、少額の賄賂で張譲の気を引く方法を考え出す事になります。
使用人への賄賂で破産
孟他は賄賂の贈り先を張譲ではなく、張譲の家の使用人に変更する事にしました。
孟他は使用人たちに何年も賄賂を送り続けた事で、遂に孟他の財産は底をつく事になります。
孟他は使用人への賄賂で家が破産してしまったわけです。
使用人たちは孟他が破産した事を知ると、申し訳ないと感じ入り、孟他に「協力出来る事はないか?」と述べました。
孟他は使用人たちに「貴方たちの拝礼だけが望みです」と答え、使用人たちも孟他に長年に渡る恩があり承諾する事になります。
使用人の拝礼
先にも述べた様に、張譲の屋敷の門の前には列が出来ていたわけです。
中には、張譲に面会を望んでも数日間に渡って、会えない人もいたと伝わっています。
しかし、列の最後に孟他が到着すると、使用人たちはいっせいに出迎え拝礼を行い、孟他の車だけを家の中に招き入れました。
これを見ていた人々は驚き、多くの者が孟他と張譲が親しき仲だと感じ入った話があります。
人々は孟他と誼を通じたいと願い、競って孟他に珍奇な品々を送り届ける事になります。
これにより孟他は莫大なる富を得ました。
涼州刺史となる
孟他は貰った品々を自分の手元に置く事はなく、全て張譲への贈り物としました。
張譲が孟他の賄賂に喜んだ事は言うまでもないでしょう。
孟他はさらに一石の葡萄酒を張譲に送ると、張譲は孟他を涼州刺史になれる様に取り計らったわけです。
孟他は使用人に賄賂を送った結果として、望みを果たす結果となりました。
最初に言った様に、孟他の子が孟達であり「この親にしてこの子あり」と言った感じだなと思った次第です。
ただし、涼州は羌族などもおり、治めるのが非常に難しい地であり、孟他では上手く統治出来なかった様にも感じました。