三国志

劉封は運命に弄ばれた可哀そうな人だった・・・。

2021年3月26日

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宮下悠史

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劉封は、劉備の養子となった人物です。

養子になったのは、劉備の荊州時代とされています。

陳寿が書いた三国志正史では、寇氏の子であり長沙劉氏の甥であると記載があります。

正史だと阿斗(劉禅)が生まれる前であった為に、劉備は劉封を養子としたと書かれています。

長沙の劉氏と劉備が何らかで繋がり、劉の性が同じで劉封が優れた人物に見えた為に、養子にしたのでしょう。

尚、三国志演義では、劉禅が生まれた後に養子にしていますが、関羽に反対された話が残っています。

しかし、劉封を見ていると「運命に弄ばれて、かわいそう」に思えてくるのは私だけでしょうか?

養子の苦しみを味わったのが、劉封ではないかと感じています。

日本で言うと、豊臣秀吉の養子となった、豊臣秀次と似ていると思いましたので、その辺りも記載しておきます。

劉封は正史三国志では、「劉彭廖李劉魏楊伝」に収録され、彭羕、廖立李厳劉琰魏延楊儀らと同じ伝に掲載されています。

劉彭廖李劉魏楊伝に記載された人物は、何かしら問題を起こしていますが、その中でも劉封は比較的まともな部類に入ると感じています。

劉彭廖李劉魏楊伝の人物は、性格が災いし「自業自得」な部分もあると感じますが、劉封に関して言えば、同情出来る部分もある様に思いました。

今回は、正史三国志の劉封を中心に見ていきます。

三国志演義の劉封

三国志演義の劉封ですが、正史にはない活躍もありますが、ここでの扱いも可哀そうな所があります。

正史三国志の劉封を紹介する前に、三国志演義だけのオリジナルのストーリーを紹介します。

先に、お話ししたように、三国志演義では、劉禅が生まれた後に、劉封は養子となっています。

関羽が「劉禅がいるのに養子を取る必要はない」と劉備を諫めたシーンがあります。

ここで、劉封が養子を断るか、劉備が諦めていれば、劉封は単なる将軍となり、今後の人生が大きく変わったのかも知れません。

尚、三国志演義の劉封は、正史にはない活躍もしています。

劉備の入蜀の時に、劉璋配下の高沛、楊懐の二人を斬った事でしょう。

正史三国志では、葭萌関まで劉備が行き高沛、楊懐を斬り兵士を奪い取ったとあるだけです。

尚、ここにおいて劉備は劉璋に反旗を翻した事を明確な態度で表しています。

劉封が高沛、楊懐を斬ったと言うのは、後の諸葛亮の「劉封は勇猛で、劉備が死後に制御出来なくなる・・・。」に繋げるための、布石になっているのでしょう。

劉封と曹彰が一騎打ち

三国志演義だけの、オリジナルの劉封設定で最大のイベントは、曹操の息子である曹彰との一騎打ちでしょう。

尚、曹彰と劉封の一騎打ちに関しては、曹彰の記事でも記載してあります。

曹彰と言うのは、正史によれば猛獣と武器もなく格闘出来るほどの、恐ろしい程の腕力の持ち主だったわけです。

さらに、烏桓征伐では弓を次々に繰り出して、自ら戦い圧倒的な強さを誇っています。

この曹彰と一騎打ちをする事になったのが、劉封です。

劉封も養子とは言え、劉備の子ですから、曹彰とは親の威信に掛けた絶対に負けられない戦いでした。

しかし、一騎打ちが始まると曹彰が圧倒的に優勢で、すぐにピンチに陥ってしまいます。

このまま一騎打ちを続ければ、劉封が討たれてしまう事は目に見えていたわけです。

そこで、劉備の配下の孟達が劉封を守るために、助太刀をして一騎打ちを終了させました。

しかし、曹彰に一騎打ちで負けてしまい、命からがら逃げて来てしまった事で、劉封の面目は潰されてしまいます。

さらに、孟達が助けた事で「自分はより一層みじめになってしまった」と、助けた孟達を憎むようになったわけです。

この一騎打ちで、劉封の心の狭さと、将としての器ではない事がはっきりとします。

三国志演義が書いた劉封と曹彰の一騎打ちは、羅貫中(三国志演義の著者)が劉封を辱める為に、悪意を持って書いたようにしか思えないわけです。

三国志演義は、劉備を聖人君子として書いているわけで、後の劉封を処罰した時に、読者を同情されない為の布石になっている様に感じます。

それでも、私は十分に劉封に同情してしまいますが・・・。

これが、三国志演義のオリジナルの劉封の逸話となっています。

孟達と上庸を取る

正史の劉封ですが、劉備の入蜀の時は、諸葛亮や張飛らと行動を共にしたようです。

劉備の入蜀は最初は、龐統を中心として蜀に向かいましたが、龐統が戦死するなどもあり荊州の諸葛亮や張飛ら益州に向かう事になります。

その当時の劉封の年齢は20歳くらいで、武芸を身につけ気力が人よりもあり、諸葛亮や張飛らと共に長江を遡り、行く先々で勝利したと記載があります。

張飛が厳顔を捕らえた時のように、具体的なエピソードはありませんが、戦場で活躍した事は間違いないでしょう。

その後、劉備は蜀を取るわけですが、その間に曹操は漢中の張魯を倒し領土を広げています。

劉備は益州を平定すると、漢中を取る為の行動を起こし、黄忠の活躍や法正の策が当たり、定軍山の戦い夏侯淵を斬る大金星を挙げています。

これにより、漢中はほぼ劉備の支配下となるわけですが、従わない郡や県を攻めています。

孟達は漢中の東部にある、蒯祺(かいき)が守備する房陵を攻めています。

孟達は、蒯祺を急襲して破り討ち取っています。

さらに、劉備は孟達に上庸を攻略させようとしますが、孟達一人では危ういと心配して、劉封を向かわせています。

上庸を守る申耽(しんたん)には、劉封が大将で孟達が副将となり攻撃しました。

この軍は、申耽を降伏させる事に成功して、漢中は着実に劉備の支配地になっていきます。

ここまでの劉封は、順調と言ってよいでしょう。

しかし、関羽の援軍要請が劉封の明暗を分けます。

関羽の援軍要請

関羽は、劉備が漢中を攻めたのに合わせて、荊州から北上しています。

ここで于禁龐徳(ほうとく)を破るなどの活躍もありますが、樊城で曹仁が奮戦したり、魏の徐晃などが援軍に来た事で苦戦しています。

関羽は、劉封や孟達に援軍を送るように要請したわけです。

劉封や孟達は、上庸付近にいたはずであり、関羽のいる襄陽付近は、それほど遠くないと言えます。

しかし、劉封や孟達は、「漢中の地は、攻め取ったばかりで、民をなつける事が出来ていない。」といい援軍要請を断っています。

この後の関羽は、孫権に同盟を破棄され、南からは呂蒙陸遜に攻められる事になります。

そして、麦城に籠りますが、逃走する最中に呉の馬忠に討ち取られています。

この情報が劉備の耳に届くと、劉備は激怒します。

劉備、関羽、張飛は義兄弟の契りを結んだ仲だったからです。

劉備と言うのは、部下の失敗に対して余り怒らない部分があるのですが、この時ばかりは激怒しています。

ここにおいて、劉封は立場をかなり悪くしてしまいました。

尚、関羽は性格上、士大夫に対して傲慢だとする記述があるので、劉封は関羽を嫌っていた可能性もあります。

劉封と孟達は兵を出せなかったのか?

劉封と孟達ですが、漢中を慰撫するのが精いっぱいで兵を出さなかったと言うのが理由になっています。

確かに、これはあるのかも知れません。

実際に、漢中の土地は曹操から切り取ったばかりですし、反乱分子がいても不思議ではありません。

孟達や劉封が漢中から離れた途端に、不平分子が反乱を起こして、魏に寝返り漢中は蜀の領土で無くなってしまう可能性もあるでしょう。

それを考えると、劉封が救援要請を断った事で、漢中を失わずに済んだと言うのもあるのかも知れません。

しかし、無理にでも関羽の救援に行っていたとしたら、関羽は東側から退却する道が出来て無事に成都に帰れた可能性もあるでしょう。

ただし、呉軍の呂蒙が荊州を南から攻めているわけで、荊州は蜀の領地でなくなってしまう事は間違いないでしょう。

劉封が関羽に援軍を送っていたら、関羽が死亡せずに済んだ可能性は十分にあると考えられます。

それによって、荊州も漢中も失ってしまう可能性もあるわけですが・・・。

関羽を救わなかったのは劉封の責任ではない?

関羽を救わなかった責任を劉封を負わされがちですが、劉備にも責任があるような気がしてなりません。

関羽の北上と劉備が、上手く連携が取れていないような気がしてならないからです。

関羽が苦戦している事の連絡が、劉備にまで伝わっていなかった可能性もありますが、劉備の口から関羽を救えと命令が出た話も聞いた事がありません。

劉備が関羽の情報を素早くキャッチして、「全軍・関羽の救援に迎え!」と号令を掛ければ、劉封も動いたはずです。

逆に言えば、劉封は劉備の命令が無かった事から動かなかった可能性も十分にあると思いました。

それか、呉の呂蒙や陸遜の電撃作戦が余りにも見事だったために、劉備まで情報が伝わる前に関羽が死んでしまった可能性もありますが・・・。

しかし、呂蒙は傅士仁や糜芳を降伏させると、荊州では善政を敷いたと言われています。

それでも、傅士仁や糜芳が降伏した時点で、劉備の元に官吏の一人くらいは逃げ出して報告に行ってもよいような気がするわけです。

劉備がどれ程までに知っていたかは、分かりませんが、関羽を見殺しにした責任を劉封や孟達だけに押し付けるのは違うのでは?と自分は思ってしまいました。

孟達が魏に寝返る

劉封は何を思ったのか、孟達の兵の一部を取り上げてしまいます。

もしかしてですが、関羽の救援に向かわないように進言したのは、孟達だったのかも知れません。

関羽が死んでしまうと言う最悪の事態になった事から、劉封は孟達に責任を求めて兵の一部を没収した可能性があるでしょう。

しかし、この行動に対して、孟達としては魏に寝返る決断をさせる事になってしまいます。

孟達は、劉備に別れを告げる手紙を上表して蜀を去り魏に寝返りました。

劉封としてみれば、最悪の状態になっていくわけです。

この時は、既に曹操が世を去り、曹丕が権力を握っています。

曹丕は、孟達が魏に寝返る事を知ると大いに喜び、厚遇します。

曹丕は孟達に徐晃と夏侯尚の兵士を付けて、上庸にいる劉封を攻撃しました。

さらに申儀が魏に寝返った事で、劉封は撤退する事になったわけです。

この時に孟達は「劉封と申耽は金城千里がありながら、失ってしまうとは」と嘆いたような言葉を言ったと記録があります。

申耽は孟達らに降伏しています。

尚、孟達が魏に寝返った事で、漢中の東部は魏の支配圏となっています。

劉封と孟達には友情があったのか?

劉封と孟達を見ていると、最初は上手く行っていたけど、関羽の援軍要請の辺りから仲が崩壊している様にも見えます。

しかし、劉封が敗れて撤退しなければいけなくなると、孟達は劉封に手紙を送っています。

孟達としてみれば、劉備の恨みを買っていますし、劉封に行き場がない事を察して手紙を出したわけです。

孟達は手紙の中で、いくら自分が主君の為に尽くしても、白起、秦の商鞅、越の大夫文種は殺されている。

春秋戦国時代の晋の太子申生は、献公の寵愛する驪姫(りき)を得て子を産んだ事で立場が微妙になった事。

孝子であるはずの太子申生は、献公に自殺を命じられている事。

申生の弟の重耳は、自害を命じられたが他国を逃げているし、斉の桓公も国外に亡命したが、二人とも最後は春秋五覇になった事を説いたわけです。

つまり、孟達は劉封が如何に劉備に忠誠を誓っても、国内では実子の劉禅がいるし、劉封の居場所はないと言ったわけです。

さらに、晋の文公重耳や斉の桓公を見習って国外に亡命する事を勧めました。

正史三国志の劉封伝を見ると、孟達の劉封への手紙が大部分を締めていて、陳寿の劉封伝で言いたかったことは、孟達の手紙だったのではないかと思われるほどです。

この手紙が孟達なりの劉封への優しさであり、友情の証だったのかも知れません。

しかし、この手紙を読んだ劉封は激怒して破り捨て、劉備がいる成都に帰っています。

尚、自分の勝手な想像なのですが、もしも劉封の立場が劉備だったら、孟達の手紙を貰うまでもなく、既に逃亡していたと思われます。

そう思うのは私だけでしょうか?

劉封の最後

成都に戻った劉封ですが、もちろん劉備は激怒するわけです。

関羽を救わなかった事や、孟達を魏に寝返らせてしまった事への責任を追及しました。

しかし、劉封としても納得が行かない部分もあったのでしょう。

これを見た諸葛亮が劉備に別室で助言したようです。

諸葛亮は「劉封は勇猛な将であり劉備が亡くなった後に、劉禅では制御できなくなる」と言います。

劉封は養子ですから、蜀の丞相である諸葛亮に取っても制御しがたい存在だったのでしょう。

この進言を受け入れた劉備は、劉封に対して自害を言いつけています。

処刑ではなく自刃するように言ったのは、劉備の優しさなのかも知れません。

ただし、劉封は「孟達の話を聞かなかった為に、こんな事になってしまった」と言ったとされています。

楚漢戦争で大活躍した韓信が、劉封に処刑される時に「蒯通(かいつう)の言葉を聞かなかったのが残念だ」と呟いています。

これを見ると劉封は最後に、韓信に自分をだぶらせたのかも知れません。

劉封が自害した事を知ると、劉備は涙を流したとされています。

しかし、自分が劉封であったら「涙流してくれても嬉しくなんかねえぞ!」と思ってしまう事でしょう。

劉封は、運命に弄ばれた人にしか思えません。

三国志を見ていても、劉封よりも「かわいそうな人」が他に見当たらないような気もするわけです。

泣いて馬謖を斬る」の馬謖の方が可愛そうだという人もいますが、個人的には劉封の方が可愛そうだと感じています。

しかし、劉封の名誉を考えると、劉備の跡継ぎには覇気がない劉禅よりは、劉封がなった方が良かったのかも知れません。

そうなると、諸葛亮は政治がやりにくかった可能性もあり、逆に滅亡が早まった可能性もありますが・・・。

その辺りは、「もしも?」になってしまうので、何とも言えません。

劉封と豊臣秀次は似ている気がする

劉封と豊臣秀次が似ている気がするのは自分だけでしょうか?

権力者に翻弄された所が似ていると思いました。

豊臣秀次は、豊臣秀吉の養子となり一時は関白に就任して、跡継ぎ候補になっていたわけです。

しかし、秀吉に秀頼が生まれると立場が微妙になっていきます。

そして、最後は権力者の秀吉によって自害を命じられています。

自分の子が即位した時に、邪魔になると考えたのでしょう。

これを考えると、養子の辛さというのがあるのかも知れません。

保身を考えるのであれば、主君に実子が生まれた時点で跡継ぎを放棄するように願い出るのが、生き残りに繋がる可能性もあるのかな?とも感じました。

それにしても、劉封や秀次などは悲劇の人にしか思えません。

決して無能という訳でもないですし、そこが非常に残念に感じました。

尚、豊臣家も劉備の蜀の国でも、2代で滅亡しています。

秀吉も劉備も後継者である実子が生まれたのは、晩年になってからです。

これも何かの因果なのかも知れません。

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