名前 | 道号:夢梅居士(むばいこし) 名前:婁子伯 |
登場 | 三國志演義 |
モデル | 婁圭 |
コメント | 氷城の計を進言 |
夢梅居士は道号であり、名は婁子伯と言います。
正史三国志に登場する曹操の家臣・婁圭がモデルなのは間違いないでしょう。
婁圭の字は子伯ですし、夢梅居士も婁圭も氷城の計を進言した人物だからです。
しかし、夢梅居士と婁圭の全てが被るわけではなく、三国志演義に登場する夢梅居士は曹操からの恩賞を辞退するなど、欲を見せませんでした。
それに対し、婁圭は立身出世を目指すなど、俗世の人物だと言えます。
今回は三国志演義に登場し、突如現れ曹操を助けた夢梅居士を解説します。
尚、三国志演義の物語の中で、夢梅居士が曹操を助けた理由などは語られておらず不明としか言いようがありません。
夢梅居士が現れた経緯
潼関の戦いの戦いで曹操は、馬超や韓遂らの涼州軍と戦いますが、大苦戦したわけです。
曹操自身も馬超、馬岱、龐徳らに急襲され、丁斐や許褚の活躍が無ければ、危うく捕虜になる所でした。
こうした中で曹操軍の軍師・荀攸が「渭水に畔に土城を築く事が出来れば、敵の攻撃を防げる」と述べます。
曹操は荀攸の意見を採用し、土城を築こうとしますが、馬超は龐徳と馬岱に命じ、城を築く曹操軍を度々急襲しました。
曹操軍は蹴散らされ、土も柔らかかった事で作業に手こずり、失敗を繰り返したわけです。
こうした中で夢梅居士と名乗る婁子伯が曹操の陣を訪れます。
三國志演義によれば夢梅居士が現れた時には、9月の末で寒気来ており、雪雲も現れ寒い日が続いていたとあります。
夢梅居士は曹操の陣を訪れた時に、兵士は次の言葉を曹操に告げました。
兵士「一人の老人が丞相(曹操)にお目に掛かり、軍略を述べたいと申しております」
曹操は馬超らに苦戦していた事もあり、夢梅居士を会う事にしました。
氷城の計
曹操の元を訪れた夢梅居士の容姿に関して、次の記述が存在します。
「老人の骨相は鶴の如く、姿は松の木の様だった。
風貌は世間の者には見えない」
夢梅居士の容姿は鶴の様に細く痩せ、得体の知れない雰囲気を醸し出す、容姿をした老人だったのでしょう。
老人は終南山に隠れ住む婁子伯と言う者で、道号は夢梅居士と名乗りました。
曹操はただモノではないと感じたのか、客分として持て成すと、夢梅居士は次の様に述べます。
夢梅居士「丞相は渭水に跨って陣を営もうと考えておる様でございますが、何ゆえに策を謀りませぬか」
曹操は「土砂が脆くて陣地を構築出来ない」と述べ、夢梅居士に意見を求めると、次の様な返答があったわけです。
夢梅居士「丞相は兵を用いるのは神の如くですが、天の時を知りませぬ。
この数日は続いて雲が立ち込めておりますが、北風が吹けば激しい寒さとなるはずです。
風が吹き始めた時に、兵士らに水を打たせておけば、夜明けの頃には、砦は自然に出来上がっている事でしょう」
曹操は夢梅居士の言葉を悟り、子伯に厚い礼をする事となります。
恩賞を辞退
曹操は夢梅居士に感謝し、引き出物を与え恩賞を取らせ様としました。
しかし、夢梅居士は恩賞を辞退し受け取らず、曹操の前を立ち去っています。
夢梅居士は俗世の人物とは、かけ離れた人物だったと言う事なのでしょう。
因みに、夢梅居士のモデルとされる婁圭は英雄を目指していた話しもあり、野心家だったとも考える事が出来ます。
夢梅居士と婁圭に関して言えば、性格の違いは多々あったと言うべきでしょう。
尚、土砂に水を掛けて固め城を作った話は正史三国志にもあります。
史実でも氷城の計により、馬超らとの戦を優位に進めて行く事になりました。
ただし、夢梅居士や婁圭の氷城の計は、本当にあったのかは不明であり、季節的に無理だったのではないか?とする話もあります。
真相は不明だとしか言いようがないでしょう。