三国志

南谷口の戦い『部下が逃げては勇猛な将軍であっても戦いは出来ない』

2022年5月9日

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南谷口の戦い(なんこくこうのたたかい)西暦234年 
勢力楊儀魏延
兵力不明不明
損害不明兵が四散

南谷口の戦いは魏延と楊儀の戦いであり、蜀漢の内部抗争とも言えます。

五丈原の戦いで諸葛亮が亡くなると、遺言により撤退を始めますが、魏延は楊儀との確執もあり撤退を拒否しました。

魏延は楊儀を恨み先回りを行い、蜀軍の道を塞ぎます。

その後に魏延が南谷口に陣を布き、楊儀と魏延の戦いとなったわけです。

魏延は歴戦の猛者ではありましたが、兵が逃げてしまった事で、南谷口の戦いは呆気なく勝負がつきました。

南谷口の戦いで敗れた魏延は漢中に出奔しますが、最終的に馬岱により討ち取られています。

戦いの経緯

南谷口の戦いの経緯から解説します。

五丈原の戦いで諸葛亮は自分が亡くなった後の事を楊儀、姜維、費禕に遺言したわけです。

諸葛亮が亡くなると費禕は魏延の元に行き、意向の確認を行いますが、魏延は諸葛亮が亡くなっても魏の司馬懿との戦いを止める気はありませんでした。

費禕は魏延の意向を確認すると、楊儀の元に戻り、蜀軍は撤退を始めます。

魏延は自分を置き去りにして撤退する蜀軍に対して怒りの感情を持ち、先回りを行い桟道を焼き払い、蜀軍の撤退を妨害したわけです。

この時に楊儀は魏延が謀反を起こしたと劉禅に上奏しますが、魏延の方でも楊儀が謀反を起こしたと上奏しました。

劉禅は回答に困り董允と蔣琬に相談しますが、董允と蔣琬は楊儀が正しいとしています。

これにより魏延は謀反人とされてしまい、成都の蔣琬は兵を率いて北方に向かいました。

南谷口に陣を布く

魏延が桟道を焼いてしまった事で、楊儀の軍は通常の道では帰れなくなってしまいます。

この時の楊儀の軍に対しては、次の記述が存在します。

「楊儀らは山の木を切り開いて道を通し、昼夜兼行で魏延の後から続いた」

楊儀の軍は苦労して前に進んだわけです。

それに対し魏延は先に南谷口に到着し陣を布いたとあります。

魏延は勇猛で戦上手だった事から、南谷口の戦いでは有利な地形を先に占拠してしまったのでしょう。

魏延の兵が四散

楊儀は南谷口に到着すると、王平(何平)を先陣とし魏延と戦わせる事にしました。

王平は第一次北伐では馬謖の副官として同行し、街亭の戦いでは張郃に敗れたとはいえ、王平だけは見事な撤退戦を演じた有能な将軍です。

王平は魏延の軍と対峙すると、次の様に魏延の軍を怒鳴りつけました。

王平「公(諸葛亮)が亡くなり、体もまだ冷たくなっていないのに、お前たちはどうしてこの様な事をするのだ」

王平の言葉を聞いた魏延の兵は逃亡を始めます。

魏延伝によれば「兵士達は非が魏延にある事を知っており、魏延の命令に従う者はなく軍兵は四散した」とあります。

魏延は桟道を焼くなど、楊儀率いる蜀軍の邪魔をしており、魏延配下の兵士にとってみれば「なぜ味方にこんな事をするのか?」と思ってしまったのでしょう。

魏延は高い能力を持った将軍ではありましたが、兵士が逃げてしまってはどうする事も出来ず、南谷口の戦いは楊儀の勝利で終わりました。

魏延は息子たちと漢中に逃げますが、楊儀は馬岱に魏延の追跡を命じます。

魏延は馬岱に首を取られ、魏延の三族も処刑されました。

勇猛な将軍と言えど、部下に逃げられてしまっては、どうする事も出来なかったのでしょう。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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