成良親王は後醍醐天皇の皇子であり、足利氏との関係が深いとされています。
当時の記録にも「足利尊氏が養育した」と書かれているものがあります。
成良親王の母親は阿野廉子であり、同母兄に恒良親王がおり、同母弟が義良親王です。
後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼすと、成良親王は鎌倉将軍府の総帥となり、足利直義が補佐する体制となります。
室町幕府が発足されると、光明天皇の皇太子となりますが、後醍醐天皇が吉野で南朝を開いた為に廃されました。
その後の成良親王の動向は不明であり、太平記では毒殺された事になっていますが、実際には近衛基嗣に預けられ亡くなったともされています。
配流を免れる
成良親王の父親である後醍醐天皇は元弘の変で捕虜となり、隠岐に流されました。
成良親王や恒良親王、懐良親王などは年齢が若かった事で、西園寺公宗に預けられるだけで済みました。
元弘の変において、成良親王はまだ子供であり、許されたのでしょう。
尚、後醍醐天皇は楠木正成の協力や足利尊氏、新田義貞の寝返りにより鎌倉幕府を滅ぼしました。
因みに、成良親王が親王宣下を受けたのは、元弘三年の11月であり8歳の時です。
鎌倉将軍府
後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼすと、足利直義が鎌倉府を任されています。
この時に、足利直義は成良親王を奉じて鎌倉に向かいました。
同母弟の義良親王は、これよりも少し前に北畠顕家に奉じられて奥州に向かいました。
保暦間記によると成良親王は関東八カ国の守護として下向したとあります。
尚、この頃に足利義詮も鎌倉にいた事が分かっています。
鎌倉将軍府は後醍醐天皇からしてみれば、関東統治の出先機関ですが、実質的には足利家の兵站基地だったとされています。
成良親王も子供であり、形だけの総帥でしかありませんでした。
鎌倉将軍府の長官としての実績
鎌倉将軍府時代の成良親王は、上野太守に就任した記録があります。
他にも、成良親王は足利直義を通じて、三浦時継を武蔵国大谷郷や相模国河内郷の地頭職を給付した記録があります。
成良親王はまだ10歳にも満たない子供であり、何処まで判断が出来たのかは不明です。
ただし、見方を変えれば鎌倉幕府の政務文書である関東下知状の様式を採用しており、成良親王が将軍であり、足利直義が執権とも見て取ることができます。
京都に帰還と征夷大将軍
1335年に北条時行と諏訪頼重らによる中先代の乱が起きると、鎌倉府の軍は連戦連敗であり、鎌倉すらも陥落しました。
この時に足利直義は鎌倉の土牢の中にいた護良親王を殺害した上で、成良親王や足利義詮を連れて鎌倉を出ました。
足利直義は「もしも」の時の事を考えて、成良親王を京都に帰らせています。
成良親王は1333年の暮れに関東に来ましたが、翌年には京都に帰った事になります。
京都に戻った成良親王は、後醍醐天皇から征夷大将軍に任ぜられました。
後醍醐天皇は足利尊氏を征夷大将軍にするのを嫌い、成良親王を征夷大将軍に任じたともされています。
皇太子となる
足利尊氏は中先代の乱を鎮圧しますが、鎌倉で独立しました。
この後に新田義貞を破り京都に進撃するも北畠顕家らに敗れて、九州に落ち延びています。
九州での戦いで勝利を掴んだ足利尊氏は上洛戦争を起こし、後醍醐天皇を比叡山で包囲しました。
足利尊氏は持明院統に接近しており、光明天皇を即位させ、光厳上皇を治天の君とし、さらには成良親王皇太子としました。
保暦間記には成良親王は「本より尊氏養ひ進せた」とする言葉もあり、足利尊氏が成良親王を養育していた事になります。
後醍醐天皇の数多くいる皇子の中でも、成良親王が最も足利尊氏に近しい立場だった事は間違いなさそうです。
廃太子
後醍醐天皇は足利尊氏と和睦しますが、新田義貞は尊良親王や恒良親王と共に北陸を目指しました。
成良親王が光明天皇の皇太子になったのは、足利尊氏が後醍醐天皇を尊敬していたからだとされています。
足利家では成良親王が践祚し天皇になれば、後醍醐天皇が治天の君になります。
こうした事情から成良親王は皇太子になったと考えられるわけです。
しかし、後醍醐天皇は天皇親政を目指す者であり、京都の花山院を脱出し吉野で南朝を開きました。
これにより南北朝時代が始まりますが、成良親王の皇太子の位は廃されてしまったのでしょう。
尚、成良親王は後醍醐天皇が大人しくしていれば天皇になれたのであり、後醍醐天皇は息子の成良の事など何も考えてもいない身勝手な人物だと評価される事もあります。
成良親王の最後
皇太子の座を廃された成良親王ですが、この後の動向で分かっている事が殆どありません。
北陸の金ヶ崎城の戦いでは新田義顕と共に尊良親王は自害しますが、恒良親王は捕虜となり京都に連行されています。
太平記の第十九巻によると、成良親王は恒良親王と共に幽閉され毒殺されたとも伝わっています。
しかし、中原師守の師守記には、康永三年(1344年)一月六日の記録に、次の様に記録されています。
※皇子たちの南北朝より引用
前左大臣近衛基嗣に預けおかれていた「後醍醐天皇皇子先坊」が没した。
この先坊というのは、直前の皇太子を指すと考えられており、先坊こそが成良親王ではないかとされています。
師守記の先坊が成良親王であれば、決して毒殺されたわけでもなく、近衛基嗣に預けられ生き延びていたと考える事が出来るはずです。
師守記によれば成良親王は康永三年(1334年)に享年19歳で亡くなった事になります。
成良親王は年若くして亡くなった皇子だと言えそうです。
成良親王の墓所は何処にあるのか分かっていません。
尚、北朝では崇光天皇が光明天皇の皇太子となり、皇太子は直仁親王となりました。
※この記事は中公文庫の皇子たちの南北朝・後醍醐天皇の分身をベースに作成しました。