室町時代

新田義宗は越後で多く活動した

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宮下悠史

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名前新田義宗
生没年生年不明ー1368年
時代南北朝時代
一族父親:新田義貞 母親:小田治久の娘?
兄弟:義顕義興 子:義方
コメント越後で多く活動した

新田義宗は新田義貞の子であり、兄弟には新田義顕義興がいます。

新田義宗は嫡子だったともされている状態です。

越後で多くの活動を行い新田義興と共に武蔵野合戦にも参戦しました。

武蔵野合戦終了後も南朝の為に越前で活動を続けますが、上杉憲顕が室町幕府に復帰すると、勢力バランスが崩れ苦しい立場となります。

新田氏は次第に存在感を失くして行き、新田義宗の死を以て新田宗家の滅亡と考える人もいます。

今回は新田義貞の息子に一人である新田義宗の解説をします。

新田義宗の誕生

新田義宗の母親は常陸小田城主八田真知の娘とされています。

八田真知は謎の人物であり正確な部分は分かりません。

ただし、小田氏は常陸介を名乗ることが多く、小田貞知か小田治久ではないかと考えられています。

新田義宗は三男ではありますが、嫡子とする記述があり、母親の身分は新田義顕新田義興よりも上だったのではないかともされています。

新田義宗が何年に生まれたのかは不明ですが、兄の新田義興が1331年に生まれており、それ以降ではないかと考えられるわけです。

尚、系図簒要には新田義顕と同様に、勾当内侍の子だとされていますが、信憑性は薄いとされています。

信濃に進撃

新田義宗は暦応三年(1340年)頃から越後で活動が見られる様になります。

越前では父親の新田義貞や兄の新田義顕が戦死し、脇屋義助斯波高経が激闘を繰り返しており、新田義宗は元服前でもあり、比較的安全な越後にいたと考えられています。

1340年に新田義宗は越後南朝の軍を率いて、信濃方面に軍を進め志久見口関所を守っていた市川倫房を破りました。

ただし、翌年には信濃守護の小笠原貞宗の反撃があり、大井田氏の居城を焼き払うなどしています。

大井田氏は新田系列の里見氏の一族でもあります。

武蔵野合戦と挙兵の決断

観応の擾乱で足利直義尊氏と対立し関東に移りました。

足利尊氏は南朝に降伏した上で東征を行なっています。

これが正平一統であり、室町幕府が南朝に降伏しました。

足利尊氏は東征を行い薩埵山の戦いが勃発しますが、両家系図によると、この頃に新田義興と脇屋義治が新田義宗の元を訪れたと言います。

新田義興と脇屋義治は「挙兵し尊氏を討ち、一族の恨みを晴らそう」と持ちかけました。

ここで新田義宗は敵は多勢で味方は少なく、新田義貞が戦死した時に弔ってくれた事を理由に反対したと言います。

しかし、新田義興と脇屋義治の説得により、新田義宗も挙兵に応じたとあります。

両家系図の話が真実であれば、新田義宗は和平派だった事になるでしょう。

新田義宗が和平派だった事も影響したのか、武蔵野合戦では新田義興が新田勢を率いました。

太平記では笛吹峠で決戦があり、新田義宗が敗れた事になっていますが、実際には笛吹峠の戦いはなかった事になっています。

ただし、武蔵野合戦で敗れた事は事実であり、新田義宗は越後に向かい、同じく戦いに敗れた上杉憲顕は信濃に向かいました。

越後で戦う

足利尊氏は越後守護を宇都宮氏綱としました。

これにより越後では尊氏派の宇都宮氏綱、旧直義派の上杉憲顕、南朝を支持する新田義宗、脇屋義治と三つ巴の戦いとなりました。

上杉憲顕は武蔵野合戦では南朝として戦いますが、状況によっては幕府に靡く勢力でもあったのでしょう。

新田義宗は文和二年(1353年)頃から軍事活動を再開しました。

1355年頃まで宇都宮氏綱の軍と戦いますが、劣勢に立たされています。

上杉憲顕の幕府帰参

足利尊氏が1358年に亡くなると、足利義詮が後継者となり細川清氏が執事となりました。

細川清氏が失脚し斯波高経が執事になると、旧直義派は徴用され幕府復帰する事が多くなります。

貞治二年(1363年)には越後南朝の一員であった上杉憲顕が幕府復帰しました。

越後守護も上杉憲顕に代わり、越後南朝は大打撃を喰らいます。

上杉憲顕が幕府勢力になった事で、越後の新田氏の重要拠点である上田荘や妻有荘にも幕府軍の侵攻を許す様になりました。

新田義宗の最後

応安元年(1368年)に、河越直重上杉憲顕の不在を狙い平一揆の乱を起こしました。

この時に新田義宗や脇屋義治は上越国境で挙兵したとされています。

河越直重が乱を起こしたのを好機と考え挙兵したという事なのでしょう。

しかし、1368年に新田義宗や脇屋義治が挙兵した資料がなく、本当に挙兵したのかは分からない部分も多いです。

この挙兵で新田義宗は戦死し、脇屋義治は出羽に逃亡したとされています。

一つの説として、新田吉宗と脇屋義春は挙兵はしましたが、小規模過ぎて同時代の記録に残らなかったのではないかとも考えられています。

尚、新田義宗の滅亡を以て新田宗家の滅亡とする場合もあります。

ただし、新田義宗には子がおり、完全に滅亡したわけでもありません。

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