名前 | 小田治久 |
別名 | 小田高朝 |
生没年 | 生年不明ー1352年? |
時代 | 鎌倉時代ー南北朝時代 |
一族 | 父:小田貞宗 子:孝朝 |
コメント | 常陸合戦で南朝から北朝に鞍替え |
小田治久は元は小田高知を名乗っていましたが、後醍醐天皇(尊治)により一字拝領があり、小田治久に改名しました。
小田治久は北畠親房を迎え入れ常陸南朝の主力として戦った事が分かっています。
しかし、近衛経忠による藤氏一揆形成の動きもあり、南朝は団結力に問題を抱えていました。
室町幕府に属する高師冬の進撃もあり南朝は不利となり、小田治久自身も北朝への鞍替えを決断しています。
常陸合戦は北朝の勝利に終わりますが、この頃から小田治久の活躍が分からなくなっていきますが、武蔵野合戦で足利尊氏の軍に参陣したのではないかとも考えられています。
尚、小田治久の動画も作成してあり、この記事の最下部から視聴する事が出来ます。
鎌倉時代の小田氏治
安東氏の内紛を収める
小田治久の初名は小田高知だと分かっています。
小田高知は北条高時からの偏諱だと考えられ、鎌倉幕府とは比較的良好な関係を築いていたのでしょう。
1327年から1328年に掛けては、宇都宮高貞と共に出羽安東氏の内紛を収める為に出陣しました。
鎌倉年代記裏書に小田尾張権守高知の名前があり、尾張守だった事も分かっています。
父親の小田貞宗は既に出家し引退していた様であり、家督も継いでいたのでしょう。
赤坂城の戦い
1331年に後醍醐天皇による元弘の乱が勃発しました。
後醍醐天皇が笠置山、楠木正成が赤坂城で籠城する事になります。
この時に、小田治久も近畿に出陣し、金沢貞冬の軍に属しました。
金沢貞冬の軍の中に「小田人々」の言葉があり、これが小田高知の軍だと考えられています。
金沢貞冬は八幡から讃良郡を通過し、赤坂城を北から攻める事になります。
赤坂城の戦いには小田高知も参戦していたのでしょう。
後醍醐天皇は笠置山の戦いで捕虜となり、楠木正成も赤坂城を放棄した事で幕府軍の勝利が決まりました。
後醍醐天皇を警護
後醍醐天皇は捕虜となり戦いは一旦終わりますが、小田高知は近畿に残る事になります。
後醍醐天皇の隠岐への配流が決定しました。
太平記の天正本系統では、後醍醐天皇は隠岐に流される時に、警護役として小田尾張守氏久なる人物がいた事になっています。
この小田尾張守氏久なる人物が、尾張守を名乗っている事から、小田高知の事ではないかとされています。
小田治久と万里小路藤房
太平記によると元弘の乱が一旦収めると、万里小路藤房を小田高知が預かったとする話があります。
万里小路藤房の配流先を小田高知に任せた事になるでしょう。
小田高知は万里小路藤房を藤沢に留め置きました。
万里小路藤房は楠木正成や平重盛と共に日本三忠臣に選ばれたほどの人です。
小田高知は万里小路藤房と意気投合したのか、邪険には扱わなかったのでしょう。
この間に、護良親王や楠木正成が挙兵し、後醍醐天皇も隠岐を脱出しました。
幕府方の足利尊氏や新田義貞が朝廷軍に寝返った事で、鎌倉幕府は滅亡しています。
万里小路藤房を小田高知は監視していたともされていますが、鎌倉幕府滅亡時に小田高知が何をしていたのかは不明です。
小田治久を名乗る
後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、小田高知は万里小路藤房と共に上洛したとされています。
この時に後醍醐天皇(尊治)から一字拝領し、小田治久と名乗ったとされています。
これ以降の小田氏では代々「治」の文字を名乗るのが、慣例となって行きました。
尚、足利尊氏は後醍醐天皇から「尊」の文字を拝領しており、足利尊氏と比べると小田治久は下の文字である「治」を拝領している事から、後醍醐天皇は二人に差をつけたと考えられています。
この様にみると建武政権において小田治久は重用された様に思うかも知れません。
しかし、小田氏諸流の小田時知や貞知の兄弟が雑訴決断所の職員となっているのに対し、小田治久の活動はよく分からない状態です。
新田義貞と小田氏
鎌倉幕府を滅ぼした英傑である新田義貞の妻の一人で、新田義宗を生んだのが小田氏治の娘ではないかとする説があります。
新田義宗の母親は「常陸国小田之城主八田常陸介源真知女」と記録されています。
小田氏の系譜を見ても小田真知なる人物は確認する事が出来ず、小田真知は小田貞宗か小田治久のどちらかではないかと考えられています。
南北朝時代で小田氏治は南朝に味方していますが、新田義貞との婚姻関係を重視したのではないかとする説があります。
南朝を支持
足利尊氏が中先代の乱で離脱してから、最終的に室町幕府が推戴する北朝と後醍醐天皇の南朝に分かれ南北朝時代が始まりました。
小田治久南朝に与するわけですが、小田氏の旧領が建武政権で足利氏の所領になっており、旧領奪還の為に南朝を支持したとする説があります。
ただし、小田氏の嫡流である小田治久は南朝に所属しましたが、一族の小田中務大輔や小田右兵衛佐は北朝を支持しました。
小田氏と言っても一枚岩ではなく、南朝と北朝に分かれて争っていたわけです。
瓜連城の戦い
北朝の伊賀盛光の軍忠状が残っており、1336年8月までに、小田治久は瓜連城に入った事が分かっています。
常陸国内では北朝の佐竹氏、宍戸氏らと南朝の小田氏、大掾氏、真壁氏らが争いました。
小田治久も南朝の武将として花房山、大方河原に軍を進め北朝方と戦っています。
南朝の吉野朝廷でも瓜連城は重要拠点と考えたのか、楠木正家や広橋経泰らを派遣しました。
小田氏治も常陸南朝の主力として奮戦しますが、瓜連城は陥落し、小田氏治は小田城に戻る事になります。
大掾氏との戦い
瓜連城が陥落してから、小田氏と共に戦っていた大掾氏が北朝に寝返りました。
小田治久は志築城の益戸虎法師丸と大掾氏の居城である府中城に攻撃を仕掛けています。
益戸顕助が戦死していた事で益戸氏では幼君の益戸虎法師丸が即位しますが、一族の者達は小田治久の支援により共闘したと考えられています。
しかし、府中城の攻略は失敗に終わり、小田勢は撤退しました。
小田氏が敗れた事で、常陸南部では恋瀬川を境に南朝と北朝に分かれて戦い事になります。
常陸合戦
北畠親房を小田城に迎え入れる
延元三年(1338年)9月に南朝の重臣である北畠親房が常陸に漂着してきました。
当時の南朝では楠木正成、北畠顕家、新田義貞が世を去っており、起死回生の一手として北畠親房が東国に派遣されたわけです。
北畠親房は東条氏に迎えられ、神宮寺城に入りました。
しかし、北朝勢の攻撃より神宮寺城が落城すると、北畠親房は阿波崎城に入りますが、ここも直ぐに落城しています。
苦境に立たされた北畠親房を助けたのが小田治久であり、小田城に迎え入れられる事になります。
尚、北畠親房は神皇正統記や職原鈔を小田城内にいる時に、執筆したと伝わっています。
北畠親房と小田治久の立場
北畠親房と小田治久は小田城を拠点に共闘しますが、この頃から小田治久の活動を示す資料が見られなくなっていきます。
小田城に北畠親房を迎え入れた事で、南朝の総大将は北畠親房となり、小田治久はあくまでも一武将となってしまったのでしょう。
尚、北畠親房と小田治久は小田城にいましたが、別の曲輪にいたと考えられています。
北畠親房は小田城から何度も結城親朝に救援要請をしましたが、結城親朝は白河近辺から動く事はありませんでした。
高師冬との戦い
室町幕府では北畠親房に対抗する為に高師冬を常陸に派遣しました。
これにより常陸合戦が勃発する事になります。
1339年に高師冬も常陸に入りますが、大掾氏の被官である税所氏に宛てた奉書が残っており、この時期に府中周辺で合戦が起きた事が分かっています。
大掾氏は南朝の軍と戦っていますが、戦った相手は小田治久や益戸虎法師丸ではないかと考えられています。
小田治久は南朝の一武将として積極的に動いていたのでしょう。
高師冬は幕府方の常陸守護である佐竹氏や下野守護の小山氏の協力が、思った様に得られなかった話があります。
南朝側では春日顕国が奮戦し、敵を破るなどしており、戦況は南朝が有利だったとみる事も出来ます。
高師冬は武士に恩賞を与える権利もなく、軍事行動も制限された事で、苦戦したとみる事も出来るはずです。
専門家によっては常陸合戦の前半部は南朝が有利だったとする見解もあります。
南朝の分裂
前関白の近衛経忠が藤氏一揆を形成しようとしました。
近衛経忠は南朝から北朝に鞍替えしましたが、北朝での待遇が悪く起死回生の一手として関東の藤原姓の者達に呼び掛けて藤氏一揆を形成しようとしました。
小田氏や小山氏は元を辿れば藤原氏であり、近衛経忠は小田治久にも呼び掛けたわけです。
しかし、小田治久は応じず近衛経忠の藤氏一揆構想は失敗に終わりました。
北畠親房は近衛経忠を「短慮な行動」などと厳しく批判しています。
南朝の分派行動とも言える藤氏一揆により南朝の求心力は低下しました。
小田城籠城戦
高師冬は苦戦しながらも勝利を重ね小田城を包囲するに至りました。
北畠親房だけではなく、小田氏治も苦しい立場となります。
高師冬は宝篋山に布陣し小田城の周辺を襲撃する事になります。
高師冬が積極的に小田城を攻めず周辺を攻撃したのは、兵力が不足しており一気に勝負をつける事が出来なかったからだと考えられています。
北畠親房は結城親朝に援軍を求めますが、結城親朝は北朝の奥州侍大将・石塔義房の誘いもあり、周辺地域が安定しなかった事で動けませんでした。
小田城籠城戦は長期戦となり、将兵の疲労がピークに達し物資の不足もあり、苦しい立場となって行きます。
こうした中で大掾浄永が志筑益戸氏の志筑城を攻撃し、さらには常陸の南朝勢力に調略による切り崩しを図りました。
長沼氏や東条氏が北朝に降る事になります。
小田治久の降伏
北朝方では小田治久も調略の対象としました。
小田城の戦況は不利となっており、小田治久も苦しい立場だったわけです。
南朝も興良親王が小山朝郷の元に向かうなどもあり、団結力に問題もありました。
興国二年(1341年)の11月に、遂に小田治久も北朝に降伏する事になります。
南朝の主力として活躍してきた小田氏ですが、既に限界に達してしまったのでしょう。
小田治久が北朝に降伏した事を受け北畠親房や春日顕国は関城や大宝城に移りました。
小田治久の評価
北朝に降伏した小田治久ですが、高師冬は直ぐに軍勢を動かすように指示しました。
小田治久は常陸南朝の勢力への攻撃に駆り出されたと言えるでしょう。
この頃の小田治久について、北畠親房が結城親朝の元に送った書状に残されており、次の様に記録されています。
手紙1
「小田治久は望んだ官途を得る事が出来ず、南朝の宮内権少輔を称し、所領を差し押さえられ、直ぐに戦場に行かされた。
大層悩んでいる事であろう」
手紙2
「治久は幕府方に何かしらの異変が起きれば、こちらに寝返る事も十分にあり得る」
この手紙を見る限りでは、北畠親房は小田治久が再度味方になってくれる事を期待したのでしょう。
しかし、次のような文章も残っています
手紙3
「小田治久は戦いを好まない性格だから、北朝に味方しても大して影響はないはずだ」
手紙4
「治久は短気な性格だから、北朝の甘い言葉に乗せられ、直ぐに寝返ってしまったのだ」
上記の手紙を見ると、小田治久の性格的なものが見て取れます。
しかし、北畠親房は小田治久に裏切られたために、「短気な性格」や「甘言に乗せられた」などの言葉を使ったとみる事が出来ます。
尚、北畠親房は近衛経忠や興良親王などの自分と仲違いした者に対し「粗忽」や「短気」などの言葉を使っており、実際の小田治久の性格が短気だったわけではなく、北畠親房流の裏切り者に対しての言葉だったと考える事が出来るはずです。
常陸合戦の終わり
常陸合戦の最終局面である関・大宝城の戦いですが、関宗祐が自害し北畠親房が吉野に戻る事で終わりを迎えました。
春日顕国は東国に残り身を潜めていましたが、北朝の勝利が確定したわけです。
ただし、史料の上で小田治久は死去の直前である文和元年(1351年)まで記録が途切れる事になります。
小田治久の後継者である小田孝朝はまだ10歳ほどの子供であり、小田治久はまだ引退出来るような年では無かった事でしょう。
太平記によると文和元年(1352年)に武蔵野合戦が勃発しており、南朝勢の新田義興、義宗兄弟に北条時行、旧直義派の上杉憲顕が関東制圧の為に動き出しました。
足利尊氏は南朝勢と激闘を繰り広げますが、武蔵国石浜に参陣した武将の中で「小田少将」なる人物がいた事が記録されています。
これが左右のどちらのかの近衛少将を名乗った小田治久ではないかとする説がありますが、この辺りは異論も唱えられておりはっきりとしない部分でもあります。
尚、小田治久は足利尊氏によって源氏姓への改正が認められたとする話もありますが、この辺りも様々な説があり不明瞭となっています。
小田治久の最後
小田治久は文和元年(1352年)12月に鎌倉で亡くなったと考えられています。
小田治久の墓所は不明ですが、一つの説として小野(茨城県土浦市)の善光寺に葬られたとされています。
善光寺は小田成治が再興したとされており、現在でも五輪塔十基が残されており、そのうちの一つが小田治久のものではないかとされているわけです。
小田治久が亡くなると後継者は小田孝朝となり、北朝の武将として活躍する事になります。
小田孝朝は和歌にも精通しており文武両道の武将として認められました。
小田孝朝の時代に小田氏は大きく発展しますが、小田治久が北朝に降伏しながらも所領を守り続けており、小田孝朝の飛躍のきっかけは小田治久にあったとも評価されています。
小田治久と宗教
小田治久の菩提寺は茨城県土浦市にある法雲寺となります。
法雲寺は正慶元年(1332年)に臨済宗の禅僧である復庵宗己が開いた楊阜庵を前身としますが、建立にあたり楊阜庵を支援したのが小田治久だと伝わっています。
この様な由縁もあり、法雲寺には小田治久を描いたと伝わる肖像画も残っています。
こうした事情からも小田治久が臨済宗を保護した姿が浮かび上がってくるわけです。
小田治久の動画
小田治久のゆっくり解説動画です。
この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝南朝編をベースに作成しました。