三国志

王嗣は蜀で最も異民族に愛された男

2022年11月18日

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名前王嗣(おうし) 字:承宗
生没年不明
時代三国志、三国時代
主君劉禅
コメント羌族から非常に好かれた人物
画像©コーエーテクモゲームス

王嗣は三国志の蜀に仕えた人物です。

ただし、王嗣の名は陳寿が書いた正史三国志の本文には登場しません。

王嗣の名が見れるのは、楊戯伝の注釈・季漢輔臣賛の後に書かれている益部耆旧雑記です。

益部耆旧雑記には、王嗣、常播衛継が紹介されており、蜀書の最期を飾る三人の部将でもあります。

王嗣は異民族に非常に愛された人でもあり、王嗣がいたからこそ蜀は何度も北伐が出来たのではないか?と考える人もいる位です。

ただし、蜀漢で異民族に最も愛された王嗣ですが、最後は呆気なく流れ矢に当たって亡くなっています。

今回は蜀の後期の部将であり、姜維の北伐にも参加した王嗣を解説します。

蜀に仕える

益部耆旧雑記によると、王嗣の字は承宗であり益州犍為郡資中県の出身だと記載されています。

当時の犍為郡は三国志の蜀の勢力範囲であり、王嗣はそのまま蜀に仕える事になります。

王嗣は功業、徳行顕著が評価され延熙年間に孝廉に推挙されました。

ただし、延熙年間は238年から257年までと長く、王嗣はいつ頃に孝廉に推挙されたのかは不明です。

それでも、最も早く考えても238年なので、諸葛亮が五丈原の戦いで死去してから、後に出仕する事になったのでしょう。

王嗣は段々と出世していき西安囲督・汶山太守となり、安遠将軍の位が付け加えられる事になります。

尚、後の事を考えると、蜀の四相の費禕の時代である西暦247年に、姜維が汶山の異民族を討伐した話があります。

反乱が起きた汶山で新たな太守として任命されたのが、王嗣なのかも知れません。

姜維の汶山鎮圧に王嗣も従軍した可能性も十分にある様に感じました。

異民族から愛される

益部耆旧雑記に「羌族を安定させ親睦させた事で、羌族らは皆が帰服した」とあります。

これを見ると王嗣が異民族統治に成功した事が分かります。

羌族と言えば、凶暴なイメージがあるのかも知れませんが、王嗣の恩愛により普段は乱暴を働いていた者も皆が来降してきたとあります。

王嗣は恩愛と信義を第一とし、処遇を行い、これにより蜀の北方の異民族と接している地域は、平穏を取り戻したと記載されていました。

魏や蜀は土地柄として多くの異民族の居住区と接しており、異民族との国境を安定させる事は非常に大事です。

それを考えれば、王嗣の功績は大きいと言えるでしょう。

羌族は大将軍の姜維が北伐を行う度に、馬、牛、羊、毛織物、穀物などを提供したとあります。

国家は羌族の支援を頼みとした話があり、姜維が何度も北伐を行えたのも、王嗣が異民族を安定させたからだとも言えるでしょう。

王嗣の異民族統治が蜀漢の北伐を行う為の、原動力になっていたとも考えられるはずです。

王嗣は鎮軍に昇進し、元の郡守を兼任しました。

王嗣の最期

王嗣は姜維の北伐にも参加しますが、流れ矢に当たってしまい負傷しました。

この時の傷が原因なのか、王嗣は数カ月後に亡くなったとあります。

王嗣が最期を迎えたのが何年の事なのかは分かりません。

しかし、王嗣の死は異民族にも衝撃を与えた様で、葬儀に参列し野辺の送りをする蛮人は数千に昇り、涙を流し声をあげて泣いたとあります。

王嗣が異民族から如何に好かれていたのかが分かる逸話でもあります。

異民族たちは王嗣の子や孫に対しては、肉親の様に接し義兄弟の契りを結んだ者まで現れました。

それを考えると、王嗣は常人では出来ない様な統治を行った事にもなるはずです。

益部耆旧雑記には王嗣は人情があり実意ある人柄を持っていて、人々に愛され信頼されたとあります。

これを考えると、異民族だけではなく蜀漢の内部の人々も、王嗣の死を悲しんだと言えるでしょう。

尚、良い働きをしたのに呆気なく亡くなってしまうのは、蜀漢の向寵を彷彿させる部分もあります。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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