
泓水の戦いは紀元前638年に宋の襄公と楚の成王との間で起きました。
泓の戦いと呼ばれる場合もあります。
泓水の戦いでの宋の軍は寡兵であり、楚の軍は大軍でした。
宋の襄公は敵が渡河し陣形が整うのを待ち攻撃を仕掛けて、大敗北を喫し襄公自身が負傷し、その傷が元で亡くなっています。
泓水の戦いでの宋の襄公の戦いぶりから、宋襄の仁なる故事成語まで出来上がりました。
韓非子でも宋襄の仁が紹介されており「仁義を守る事ばかりを優先し、臨機応変に対処する事を知らなかった」と評されています。
泓水の戦いを見ると、宋の襄公の愚かさばかりが目立ちますが、実際には当時の戦争では「敵が川を渡河する最中に攻撃してはいけない」とするルールがあったのではないかとも考えられています。
宋の襄公は戦場の作法に則り戦ったとみる事も出来るのではないでしょうか。
泓水の戦いの経緯
泓水の戦いの経緯ですが、発端となったのは覇者であり、中原諸侯を纏め上げていた斉の桓公の死です。
斉の桓公は管仲の言葉もあり、生前に宋の襄公を後継者の公子昭(斉の孝公)の後見人として依頼していました。
斉の桓公が亡くなると、斉では公子たちが争いますが、紀元前642年に宋の襄公は曹・衛・邾の連合軍を組織し、斉の孝公の擁立に成功しています。
これ以降の宋の襄公は自ら会盟を主催するなど、覇者としての振る舞いを見せる様になります。
楚は宋の開いた会盟に臣下を参加させたりもしていましたが、宋の襄公の態度が気に入らず、会盟を行うと偽り、捕えたりもしました。
楚の成王は宋の襄公を釈放しますが、宋の襄公は覇者の道を諦めなかったわけです。
宋は鄭に侵攻し、宋が鄭の救援要請に応じた事で、泓水の戦いが勃発する事になります。
泓水の戦いの内容
泓水の戦いが始まりますが、戦いの内容は韓非子にも採用されており、非常に有名な合戦となっています。
泓水の戦いの内容の詳細に関しては、宋襄の仁の記事で書いており、ここでは簡略に説明させて貰います。
宋は元々は中堅国であり、大国である楚と正面から戦うだけの力は無かった事でしょう。
しかし、宋は寡兵で楚の大軍に挑む事になり、これが泓水の戦いであり、川を挟んで対峙しました。
楚軍は川を渡河し始めると、宋の目夷は「今が好機」と攻撃を勧めますが、宋の襄公は拒否しています。
楚軍は川を渡り終えますが、布陣が出来ておらず、目夷は攻撃を進言しますが、宋の襄公は「卑怯な事は出来ない」と却下しました。
宋の襄公は楚の軍の陣形が整った所を見ると、正々堂々と攻撃を仕掛けますが、元々数の差もあり大敗北を喫しています。
総大将の宋の襄公自身も負傷する程の敗北であり、完膚なきまでに敗れ去ったと言えるでしょう。
目夷は宋の襄公の戦いぶりを「戦というものを知らない」と評価しました。
無用の情けにより失敗する事は故事成語となり、宋襄の仁と呼ばれる事になります。
泓水の戦いの敗北は宋の襄公の責任ではないかった?
泓水の戦いを見て大半の人は「いくら礼を尽くしても戦いに敗れてしまったら無意味」と思ったのではないでしょうか。
宋の襄公は泓水の戦いで「礼に囚われ、目的である戦争に勝つ事を忘れた」様にすら見えます。
しかし、泓水の戦いでの宋の襄公を評価する話も存在している状態です。
春秋公羊伝では「大事の臨んでも大礼を忘れなかった」と述べ、聖人として名高い周の文王でも「これほどの戦いは出来ない」と高く評価しました。
さらに、春秋公羊伝では「楚軍が川を渡り対等な条件で戦ったのなら、勝てなかったのは臣下の責任」ともしており、泓水の戦いでの宋の襄公を擁護しています。
史記でも宋世家の最後の部分で司馬遷は泓水の戦いでの事を述べ「宋の襄公の戦いぶりを評価した君子がいる」と述べています。
渡河する敵を攻撃してはいけないルールがあった!?
宋の襄公の戦いに関して、高木智見先生は違った見方を述べています。
泓水の戦いでの、宋の襄公の戦いは「当時の軍礼に則った行動である」としました。
つまり、春秋時代には戦場の作法というものがあり、作法に則り宋の襄公は戦い敗れたとするものです。
高木智見先生は春秋左氏伝の記述を読むと「弓矢攻撃を交互に行う」「窮地にある敵」「戦意のない敵」などへの攻撃を控えたり、敵であっても武勇の士に対しては、敬意を示すなどの行為があると言います。
実際に「敵が川を渡っている最中に攻撃してはいけない」というルールがあったのではないかと考えました。
魯の僖公の末年(紀元前627年)に、晋の陽処父と楚の子上が泜水で対峙しました。
この時に、晋の陽処父は子上に「貴方が戦う気があるなら、私は後退するから川を渡って陣を張られよ。その気がないから我らに川を渡らせる様に」と伝えました。
陽処父の言葉を見る限りでは、相手が川を渡らせるルールがあったのではないかとも考えられるわけです。
泜水の戦いは子上は川を渡ろうとしましたが、配下の大孫伯(成大心)は制止し「渡る途中で攻撃を受けたら敗北するから、後退して晋軍に川を渡らすべきだ」と告げました。
楚軍は川を渡河する危険性は察知していましたが、戦場のルール的に「川を渡河する敵に攻撃してはいけない」とするものがあった様に感じるわけです。
泜水の戦いでは楚軍は後退しましたが、晋が渡河せず撤退し戦闘は起きずに終わっています。
これを見ると、当時の戦いでは「川を渡河する敵を攻撃してはいけないルール」があり、泓水の戦いでの宋の襄公は「戦場の作法に則り行動した」に過ぎなかったのかも知れません。
さらに言えば、宋の襄公は覇者を目指しているのであり「戦場の作法を破れば諸侯の信頼を失う」と考えた可能性もある様に感じています。
ただし、戦場の作法が徹底されていたのであれば、小国が策を使って大国を破るのは難しいと感じました。
それと同時に兵力が劣っていて、正面から戦うのであれば勝ち目はなく、それなら籠城するなりした方がよかったのではないでしょうか。
泓水の戦いは様々な憶測を呼ぶ戦いにもなっています。
※この記事は佐藤信弥先生の「戦争の古代中国史」をベースに書いています。