三国志 西晋 魏(三国志)

路蕃はそつなく任務をこなす

2022年1月25日

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名前路蕃
生没年不明
魏→西晋
年表257年 諸葛誕の乱
 271年 匈奴征伐

路蕃は正史三国志三少帝紀の高貴郷公紀や、晋書胡奮伝に記述がある人物です。

高貴郷公は魏の代四代皇帝曹髦の事であり、路蕃が魏末期や晋初期に活躍した人物だと言う事が分かります。

路蕃に関する記述は少ないですが、僅かな実績を見るに着実に任務をこなした様にも見えます。

路蕃は諸葛誕の乱や、西暦271年の匈奴の劉猛の乱で活躍した事が分かっています。

路蕃は正史三国志や、晋書に伝も無い様な無名の人物ですが、解説してみたいと思います。

諸葛誕に加担せず

魏の末期では司馬懿が曹爽との政争に勝利し、魏の実権を握る事になります。

司馬懿の子である司馬師、司馬昭と魏では司馬氏による権力が強化されていったわけです。

諸葛誕は呉の諸葛恪に敗れるなどもありましたが、西暦251年に魏に対し反旗を翻しました。

この時に、正史三国志の高貴郷公紀に下記の記述が存在します。

諸葛誕に加担する事はなく、平寇将軍・臨渭亭侯だった龐会は、騎督偏将軍・路蕃らと自分の手元の兵士を引き連れて、城門から斬って出た。

彼らの壮絶な忠義と壮烈さと勇敢さは讃えられるべきものであった。

龐会の爵位を郷侯とし、路蕃を亭侯に取り立てる。

上記の記述から路蕃は諸葛誕の近くにいた人物にも関わらず、自らの側近を引き連れて諸葛誕陣営から離脱したのは明白です。

魏側からしてみれば、路蕃や龐会の行動は賞賛されるべきものであり、魏では路蕃を亭侯にしたのでしょう。

匈奴の乱

西暦263年に劉禅が降伏し蜀が滅びますが、265年には魏の曹奐は司馬炎に禅譲を行い、魏が滅び西晋王朝が樹立されています。

路蕃は魏滅亡後は、引き続き西晋に仕える事となります。

西暦271年に匈奴の劉猛が反旗を翻しました。

この事に関しては、晋書に記述があり、劉猛の乱の鎮圧に路蕃も参陣した事が記録に残っています。

「胡奮が監軍・仮節となり、驍騎将軍・路蕃の後詰めを行った」

上記の記述からは、路蕃は驍騎将軍になっており、前衛部隊として匈奴の劉猛と戦っていた事が分かります。

匈奴の劉猛の反乱に関しては、劉猛の部下である李恪が劉猛を斬って投降しています。

何楨や劉欽らの活躍により、劉猛の乱は鎮圧されました。

これを考えると、路蕃は任務をそつなくこなし、形勢不利とみた劉猛配下の李恪は、何楨の誘いにより劉猛の首を手土産とし降伏したと言う事なのでしょう。

路蕃の評価

路蕃は記録が非常に少なく実態が非常に分かりにくい人物です。

しかし、諸葛誕の乱の時に、龐会と共に司馬氏側についたのは先見の明があったとも言えるでしょう。

さらに、路蕃は匈奴征伐でも活躍したはずであり、任務を着実にこなした様に見受けれます。

大きな逸話がない事で、無名だと感じますが、確実に実在した人物だと言えると思います。

ただし、路蕃の最後がどの様なものだったのかは不明であり、西暦280年に西晋が呉の孫晧を降伏させた天下統一を見れたのかは分かりません。

路蕃は将軍としても役に立つ人物だと感じますので、呉との最後の戦いにも参加していた可能性もあるでしょう。

呉との最後の戦いには、胡奮も参陣している記録があり、胡奮と共に呉軍と雌雄を決するべく路蕃も出陣した可能性もある様にも感じました。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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