
劉友は劉邦の六男とされていますが、母親の名前は不明です。
劉邦の妾の子の一人だったのでしょう。
劉友は劉邦の時代に淮陽王となりますが、呂后の時代が到来すると兄の劉如意が世を去った事で、趙王にお国替えされました。
呂氏の娘を娶りますが、劉友は愛妾にべったりだったわけです。
これに怒った呂氏の娘は呂后に訴えました。
劉友は長安に呼び出され幽閉され食事も与えられませんでした。
幽閉された劉友の歌が漢書に掲載されており、後に餓死しています。
尚、劉友が餓死したのは呂后が悪女と呼ばれる理由の一つにもなっている状態です。
趙王に即位
劉友は劉邦の子で漢書では高祖の9年(前198年)に、淮陽王になったと記録されています。
劉邦が崩御し、恵帝が即位すると、呂后が政治を執りますが趙王の劉如意及び母親の戚夫人を殺害しました。
呂后は趙王の座が空いたので、劉友を淮陽王から趙王に移しています。
これにより劉友は趙王になったと言えるでしょう。
漢書によれば在位期間は14年であったとあります。
呂氏の娘
呂后は一族の娘(名前不明)を劉友に嫁がせました。
呂后としては呂氏一族と劉友の友好強化の為に、劉友に嫁がせたと言えるでしょう。
しかし、劉友は呂氏の娘を愛さず、妾を寵愛しました。
これに腹を立てたのが、呂氏の娘であり劉友の元を去り、長安の呂后の元に向かったわけです。
ここで呂氏の娘は、次の様に呂后に訴えたと言います。
※漢書・高五王伝第八より
呂氏の娘「王(劉友)は『呂氏が王たる理由はない。
太后が亡くなったら、儂は必ずや呂氏を討つ』と述べております」
呂后は怒り趙王の劉友を召したと言います。
劉友は「呂氏の王たる理由はない」と述べた事になっていますが、この時には恵帝も亡くなり呂后が政治を行う理由も、あやふやになってきた時期でもありました。
張辟彊の策により陳平が呂氏の一族を優遇する政策に賛同した事もあり、呂后の娘の魯元公主の子の張偃が魯王となり、呂后の兄の子の呂台が呂王となっています。
呂氏の娘の言葉では「劉友は呂氏の者が王になった事に反発している」と告げた事になるのでしょう。
劉友の最期
劉友は呂后の命令に従い長安に行きました。
劉友が長安に到着すると呂后は会おうともせず、邸宅を包囲し食事を与えない様にしたわけです。
群臣の中では劉友に同情的な者もいたようであり、密かに食事を提供したりもしたようですが、呂后は許さず食事を与えた者を処分しました。
趙の劉友は飢え、次の歌をつくったと言います。
※漢書4(ちくま学芸文庫)
諸呂、権力を専らにして 劉氏微え、
迫って王侯を脅かし 強いて我に妃を授く。
我が妃すでに妬みて 我を誣うるに悪を以てし、
讒言の女、国を乱せども、主上かつてさとらず。
我に忠臣なし 何の故に国を棄つるや、
田野の中に自決すれば 蒼天も我の直きに与せん。
ああ、悔ゆとも及ばじ 寧(なん)ぞ早く自害せざりし、
王となり飢え死ぬとても 誰かこれを憐れまん。
呂氏、理(ことわり)を断つ 天に託して仇に報ぜん。
劉友の己の立場を謳ったとみる事が出来ます。
劉友の幽閉は最後まで解かれる事はなく、そのまま餓死しました。
漢書によると、庶民の礼をもって長安に葬られたと言います。
諡号は幽王とされ、悪諡がつけられました。
劉友はなぜ無残な最期を迎えたのか
劉友が無残な最期を迎えた理由ですが、史記や漢書を見る限りでは妻である呂氏の娘との不和にあると言えるでしょう。
呂后が劉友に一族の娘を娶らせたのは、関係強化し自らの政権を盤石にしたいとする狙いがあったはずです。
しかし、劉友は呂氏の娘を愛さず、妾を寵愛し嫉妬に狂った呂氏の娘は呂后に訴え幽閉され亡くなった事になっています。
これには見方が二つあると考えられ、一つは劉友が空気を読んで呂氏の娘をもっと大事にすべきだったという事です。
劉友が呂氏の娘に愛情をそそいでいれば、こんな事にはならなかったとみる事が出来るのではないでしょうか。
もう一つは趙王にはなりましたが、呂氏の娘も周囲の者達も劉友の監視が目的であり、余りにも息苦しかったとする説です。
劉友の死後に劉恢が趙王となりますが、呂氏の監視が酷く寵愛する妾も殺害され、自らは自害して果てました。
これを考えれば、劉友もかなり息苦しい生活を送っており、愛妾だけを心の拠り所にしたのではないでしょうか。
こうして考えれば、劉友にも同情の余地は多いにあります。
どちらにしろ、劉友は長安で幽閉され餓死した事だけは間違いないのでしょう。