
隗状は秦が天下統一した時点では、右丞相に就任していた事が分かっています。
秦では相国が廃止されており、隗状が位人身を極めた事になります。
隗状は史記では隗林となって登場しています。
ただし、具体的な功績が記録されておらず、分からない事が大半だと言えます。
それでも、始皇帝の天下統一時の丞相であり、文官の長として始皇帝を補佐した事は間違いないのでしょう。
隗状の出自
秦では統一前は昌文君や昌平君がおり、相国が最高位でしたが、昌文君や昌平君が亡き後には設置されませんでした。
丞相が最高位になりますが、始皇帝が天下統一した時点での、秦の右丞相が隗状であり、左丞相が王綰だったわけです。
唐の時代まで行けば「左」の方が尊ばれましたが、秦の時代では右丞相が最高位でした。
つまり、秦の天下統一の時代に秦の行政のトップにいたのは、隗状という事になるのでしょう。
ただし、隗状の出自は謎であり、春秋戦国時代を見ても「隗」を氏とする人物が見当たらない状態です。
秦の最高位までなりながら、出自が分からないのが現状となっています。
似ている名前で秦の将軍として活躍した羌瘣がいますが「瘣」の文字が違うのと、羌瘣の「瘣」は名前であり氏ではありません。
王莽の時代の群雄に隗囂がおり、後漢の光武帝とも戦った人物がいます。
隗囂は天水郡秦安県の出身だと記録されており、隗状もこの辺りの人物だったのではないかとも考えられています。
隗状が右丞相になったとされる所以
史記の始皇本紀を見ると、秦の天下統一後に秦王政は始皇帝を名乗る事になります。
この時の丞相の王綰、御史大夫の馮劫、廷尉の李斯らが「泰皇」と称する様に進言しましたが、秦王政は採用せず「皇帝」を名乗りました。
ここでは、隗状の名前が登場せず、郡県制か郡国制で議論した時も王綰らが郡国制を進言するも、李斯が郡県制を支持し、李斯の案が通っています。
郡国制か郡県制かの議論でも王綰は登場しません。
ただし、史記では「王綰ら」となっており、隗状は郡国制に賛同する側だったのではないかとする説もあります。
こうなると隗状は右丞相でありながら影が薄い様に思うかも知れません。
しかし、度量衡器に刻まれた詔書には「丞相状、綰」の文字が刻まれており、さらに史記の始皇帝の第二回巡幸にも隗状は参加した事になっており、琅邪台の記述では丞相として隗林(状)と王綰の名があります。
尚、岳麓秦簡なる資料には第一回の始皇帝の巡幸にも、王綰と隗状が同行した事になっています。
こうした事から実績は不明ですが、秦の最高位である丞相になった隗状が間違いなく存在したのでしょう。
さらに言えば、隗状は常に王綰よりも名前が先に書かれており、右丞相は隗状だったとみる事が出来ます。
隗状と隗林
正確に言えば、隗状は史記には登場しません。
史記では琅邪台の所で隗林の名前が登場しており、隗状の名は登場しないという事です。
ただし、隗林と書いたのは司馬遷の間違いであり、実際には隗状が正しいと多くの専門家が考えています。
日本における史記の翻訳と言えば、ちくま学芸文庫の史記となりますが、こちらは既に翻訳の方で隗状となっていました。
しかし、専門家が見るような史記のテキストでは隗林になっているという事です。
史記の注釈書で司馬貞の史記索隠がありますが、こちらでも隗林は間違いであり隗状が正しいと述べています。
顔之推は南北朝時代の末期の人ですが、ハカリの権(おもり)が出土し、始皇帝の時代の計量器で丞相として隗状と王綰の名が並んで刻まれていたと言います。
顔之推だけではなく、王劭も出土史料などから、隗状が正しいと述べています。
ただし、司馬遷がなぜ隗状と隗林を間違えてしまったのかは謎とされています。
隗状の最期
隗状の活躍は一切不明ですが、李斯が丞相として確認する事が出来る紀元前213年までには、引退するなり死亡するなりしたと考えられています。
隗状に関しては王綰と同様に特に処罰された記録もなく、始皇帝陵の西にある陪葬墓に葬られた可能性が指摘されています。
記録にあるわけではありませんが、陪葬墓は政府高官が葬られる場所と考えられており、隗状が眠っている可能性もあると言えるでしょう。
尚、隗状の子孫がその後にどうなったのかは不明です。