名前 | 桜井の別れ |
年表 | 1336年 |
コメント | 太平記でも屈指の名シーン |
桜井の別れは死を覚悟した楠木正成が、長子の楠木正行に思いを告げ家に帰らすという太平記でも屈指の名シーンとなっています。
後には桜井の別れを題材にした「桜井の決別」なる歌や能で有名になり、年配の方々では知っている人も多いはずです。
実際の桜井の別れですが、本当にあったのかは不明な部分も多く、実際に史跡桜井駅に南北朝期の駅跡が発見されておらず創作の可能性も指摘されています。
今回は楠木正成と楠木正行の別れの場面である「桜井の別れ」を解説します。
無謀な戦いに挑む楠木正成
九州に落ち延びた足利尊氏は多々良浜の戦いで勝利し九州や四国の武士たちと共に大軍で近畿を目指しました。
ここで楠木正成は後醍醐天皇に京都に敵を率いれ、包囲殲滅する作戦を立案しますが、公家などの反対もあり実現しなかったわけです。
楠木正成は寡兵で新田義貞の援軍に向かいますが、息子の楠木正行を連れており、桜井の駅に到着する事になります。
楠木正成は死を覚悟しており、楠木正行に家に帰る様に告げました。
これが桜井の別れの始まりとなります。
桜井の別れの内容
楠木正成は母親がいる故郷に戻る様に、楠木正行に言いますが、正行は納得しませんでした。
この時の楠木正行は11歳だったとする説もあり、幼い正行を死地に連れて行くのは気が引けたのでしょう。
楠木正成は「今回の合戦で自分が討死すれば足利尊氏の天下となるが、お前は早く大きくなり天皇に仕えよ」と述べました。
かなり端折りましたが、楠木正成は楠木正行に「お前を家に帰すのは成長し皇室を守らせる為だ」と告げたわけです。
楠木正成は桜井の別れで正行に「皇室の為に命を賭して忠義を貫け。それこそが父への孝行だ」とまで述べています。
この言葉から楠木正成が守ろうとしたのは、後醍醐天皇では無く皇室だったのではないかとも考えられています。
尚、この後に楠木正成は新田義貞と共闘し、足利尊氏率いる大軍と決戦に赴き湊川の戦いで最後を迎えました。
楠木正成の死を聞いた楠木正行は思わず自害しようとしてしまった話が残っています。
桜井の別れは史実なのか
桜井の別れですが、国史跡桜井駅跡の発掘調査が行われましたが、南北朝時代の駅跡が発見されていません。
こうした事から、桜井の別れは史実ではなく創作だったのではないかとされています。
楠木正成は建武政権の頃に武者所となったり、京都で活躍しており、建武の新政が始まった段階で京都に移り住んだのではないかとも考えられています。
建武二年(1335年)に諏訪頼重に担がれた北条時行による中先代の乱が勃発しますが、この頃に楠木正行は河内に戻ったのではないかともされているわけです。
桜井の別れが実際にあったのかは不明ですが、楠木正成は悲壮感がある中で戦い、楠木正行に対し思う所はあったはずです。
因みに、楠木正行や楠木正時は南朝の為に命を懸けて戦いましたが、もう一人の子である楠木正儀は一時的に北朝に降伏するなどもしています。
楠木正行にしても活動期間が短く、何処までが本当なのか分からない部分が多いです。