名前 | 三監の乱 |
時代 | 西周時代 |
コメント | 殷の遺民による大規模な反乱 |
三監の乱は西周王朝の初期に発生し、武庚を中心に行われました。
史記では首謀者は周の文王の子で、武王の兄弟である管叔鮮や蔡叔度となっています。
しかし、近年の発見もあり、管叔鮮、蔡叔度、霍叔処ら三監は乱を起こしたわけではなく、乱を起こした武庚に殺害されたのではないかと考えられる様になってきました。
それと同時に、史記では三監の乱を討伐したのは周公旦となっていますが、実際には討伐したのは周の成王本人だったのではないかとされる様になってきました。
尚、三監は「管叔鮮、蔡叔度、霍叔処」の三名とする説と「管叔鮮、蔡叔度、武庚」の三名とする場合がありますが、武庚の乱が事実だったなどの説もあります。
史記の三監の乱
周本紀の記述
史記の周本紀によると周の武王が亡くなった後に、年若くして周の成王が即位しました。
周本紀には、次の記述があります。
※史記周本紀より
周公(周公旦)は諸侯の離反を畏れ自ら摂政となり政を行った。
管叔鮮は蔡叔度ら兄弟は、周公を疑い武庚を擁立し周に背いた。
周公は成王を奉じ、乱を討ち武庚を誅し、管叔鮮を殺害し蔡叔度を放逐した。
微子啓を殷の後継者として、宋に国を立てさせた。
上記の記述が、史記における三監の乱の記述となります。
殷の紂王の子である武庚と管叔鮮、蔡叔度が乱を起こし、周公旦が反乱を鎮圧した事になるでしょう。
管叔鮮と蔡叔度が周公旦に疑いを持ち、反旗を翻した様子も伺えます。
問題点
史記の記述を見ると、周側の人間である管叔鮮と蔡叔度が、何故か滅ぼした側の人間である武庚を擁立し乱を起こしました。
敵側の人間である武庚を、周側の管叔鮮と蔡叔度が擁立出来たのかは、非常に謎です。
史記の三監の乱を見ると、周公旦と管叔鮮・蔡叔度の権力闘争の様にも見えます。
管叔鮮と蔡叔度は普通に周公旦に歯向かっても勝ち目は薄いと考え、殷の民を味方につける為に、武庚を擁立したとみる事も出来るのではないでしょうか。
しかし、史記の周本紀、魯周公世家、管蔡世家を見ても詳細が書かれておらず、謎は深まるばかりだったわけです。
繋年の三監の乱
「繋年(けいねん)」と呼ばれる戦国時代の中期に掛かれた楚の史料が発見されました。
繋年には、下記の記述が存在します。
※繋年より
周の武王は殷に勝利し、三監を殷に設置した。
しかし、武王が没すると、殷の遺民たちが乱を起こし、三監を殺害し彔子耿(武庚)を擁立した。
成王は武王の継ぎ商邑を征伐し、彔子耿を殺害した。
繋年の記述を見ると、三監(管叔鮮・蔡叔度・霍叔処)は殷の武庚を擁立した勢力に殺害されており、乱を起こしたわけではない事が分かるはずです。
日本でも鎌倉幕府が滅亡した時には、北条時行による中先代の乱が起きていますし、中国の春秋戦国時代であっても韓が滅びた後には、新鄭で旧貴族たちを中心とした乱が起きています。
これらを考えれば、殷の遺民が武庚を擁立し反旗を翻し、三監を倒してもおかしくはないでしょう。
特に周の武王が亡くなったばかりであり、殷の勢力にとってみれば「好機到来」と思えても不思議ではありません。
繋年の三監の乱の方が頭がすっきりとし、矛盾点がないと感じました。
さらに言えば、繋年では三監の乱を討伐したのは、周公旦ではなく周の成王本人となっているのも注目すべき点でしょう。
西周金文の三監の乱
史記よりも繋年の方が古いですが、それでも三監の乱よりも何百年以上も後の史料となります。
西周時代の西周金文にも三監の乱に関わる、記録があり、これが一番古い記録となります。
西周金文には、次の記述が存在しています。
※大保簋より
王が彔子聖(武庚)を討った。ああ、彼が叛くと、王が征伐の命令を大保(召公奭)に降した。
大保簋に書かれている彔子聖が史記の言う武庚だと考えられています。
大保簋の記述から見ると、成王が三監征伐に乗り出し、召公奭も従軍した事になるのでしょう。
さらに、卿盤には「周公が商を討った」とする記録があり、周公旦も成王の軍に加わりました。
西周金文から見ると、管叔鮮・蔡叔度・霍叔処の三名が武庚を擁立した記録がなく、周の成王の討伐に召公奭や周公旦が参戦した事が分かるだけです。
ただし、西周金文に書かれているという事は、三監の乱は間違いなく起きた事になるでしょう。
史実の出来事としてみてよいはずです。
三監の乱とはなんだったのか
個人的に思うのは、三監の乱は正確に言えば、武庚の乱とでも呼んだ方がよいと感じました。
それと同時に、史記の記述よりも繋年の記述の方が史実に近いのではないでしょうか。
話の流れとしても理解しやすいです。
武庚は殷の遺民に担がれて乱を起こし、管叔鮮・蔡叔度・霍叔処らを殺害した。
この後に、周の成王が周公旦や召公奭の協力を得て、討伐したとするのが実情に近いと感じています。
尚、三監の乱が鎮圧されると、史記によれば殷の遺民は殷の微子啓の宋と康叔封の衛に任せて統治させたとあります。