名前 | 西虢(せいかく) |
始祖 | 虢叔 |
建国と滅亡 | 紀元前1046年?ー紀元前770年? |
コメント | 周王朝の卿になるなど影響力があった |
西虢は周の文王の弟である虢叔が祖だとされています。
周の武王が殷の紂王を牧野の戦いで破り、殷を滅ぼすと正式に西虢の地に封じられたのでしょう。
西虢は東虢と並び西周王朝の本拠地である鎬京を東西から挟む形にあり、重要な藩屏だったはずです。
西虢は周の幽王の時代に虢石父が卿になるなど、西周王朝の末期になっても高い影響力を持っていた事が分かります。
西周王朝の直轄地である王畿内にある代表的な邦国が西虢だったのでしょう。
周の幽王が申侯や犬戎に敗れて亡くなり、周の平王が成周で即位した事を周の東遷と呼びますが、西虢も東遷を行い虢国を建国し春秋戦国時代を迎えたとする説もあります。
西虢の後裔国が北虢と南虢であり、西虢の故地が小虢と呼ばれたりもしている状態です。
さらに言えば、西虢の虢公翰が周の携王を擁立した話もあり、西虢は周の東遷期においてキーマンとなる国でもあります。
西虢の東遷
先にも述べた様に、西虢は季歴の子で周の文王の弟でもある虢叔を西虢に封じる事で出来た国となります。
兄の虢仲が東虢の君主となり、弟の虢叔が西虢の君主になり、一番上の兄である周の文王の家系が周王の位に就きました。
西周王朝の時代に西虢がどの様な役割を果たしたのかは不明ですが、西周王朝末期の周の幽王の時代に西虢の虢石父が卿となりました。
西虢の虢石父は、極めて評判が悪かった事が史書に残されています。
虢石父の評判が悪かった理由ですが「利を好みへつらうのが上手かった」からだとされています。
周の幽王の時代は寒冷化による不作も重なり、非常に厳しい状態でした。
こうした中で周の幽王は申后と太子の宜臼を廃し、褒姒を皇后とし伯服を後継者に指名しています。
幽王の節操のなさもあり、申侯との対立が始り、当時の西周王朝の高官であれば、王権の崩壊の予兆を感じていた人も少なくはないでしょう。
西周の司徒である鄭の桓公は西周王朝が崩壊する事を予見し、伯陽の意見に従い民を東虢と鄶に預けました。
西周王朝と深く関わっている西虢の虢石父も周の崩壊を予見し、何らかの手を打っていた可能性があるはずです。
虢石父は「利を好みへつらった」と書かれていますが、周の幽王にへつらい、自分の利益の為に新たなる都市を建造した可能性もあると感じました。
新たに誕生した都市が黄河を挟んだ虢国であり二つの都市から構成されており、黄河の北にある下陽が北虢であり、黄河の南が上陽が南虢となり、西虢がもしもの時の為に用意した都市の可能性もあるはずです。
西虢の位置ですが、犬戎の居住区とも非常に近い位置にあり、外部からの圧力もあり不安定だった可能性もあります。
西周王朝が崩壊すれば、西虢も国を維持する事は出来ないと考えられ、虢石父はいざという時の為に虢国を建設したのかも知れません。
実際に周の幽王が申侯や犬戎に殺害されると、西虢は本拠地を虢国に遷したのでしょう。
西虢の故地は小虢とも呼ばれていますが、小虢の遺民たちは異民族の侵入を受け滅び、秦の武公が滅ぼしたとされる小虢は異民族国家だとする説もあります。
携王を擁立
紀元前771年に周の幽王が亡くなり褒姒が捕虜となると、西虢の虢公翰は周の幽王の王子である余臣を擁立したとされています。
これが周の携王であり、申侯が擁立する周の平王がいた事で、周は分裂しました。
西虢の虢石父は周の幽王や褒姒、伯服を支持するグループであり、申侯が擁立する周の平王とは対立関係にあった事で、生き残りの為にも周の携王を擁立したのでしょう。
周の携王は王畿内に領地をもつ邦君諸侯らが擁立した君主の可能性も高いです。
鄭の桓公も成周を抑えて東虢と鄶を滅ぼし第三の勢力となり、周は三つに割れ鼎立する事になります。
虢公翰が擁立した周の携王ですが、竹書紀年では携の地で擁立された事になっており、繋年では虢で擁立された事になっています。
周の東遷期においてキープレイヤーであった西虢ですが、紀元前759年までには周の平王陣営に寝返った事が分かっています。
晋の文侯や鄭の武公が周の平王を支持し携王側が不利となる中で、西虢も寝返った可能性があります。
特に大きな軍事力を持つ晋が周の平王を支持した事は西虢の鞍替えの大きな理由になっていたのかも知れません。
西虢が離脱した時点で、周の携王を支持するグループの長が誰だったのかはイマイチ不明です。
紀元前738年に周の平王が洛陽に入り周の東遷が終わりますが、この時には西虢も完全に東遷が完了しており、黄河を挟んで虢国が誕生していました。
虢国は下陽の北虢と上陽の南虢の二つから成り立っており、周王朝と深く関わり春秋戦国時代にあって邦国の様な役割を果たす事になります。
虢国は周王の命令で晋の内乱に介入したりもしましたが、晋の献公の時代に滅ぼされました。