三国志 魏(三国志)

成重山の戦い

2022年7月25日

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成重山の戦い(せいじゅうざんのたたかい)西暦248年 
勢力
指揮官郭淮廖化
兵力不明不明
損害不明不明
勝敗勝利敗北

成重山の戦いは、西暦248年に魏の郭淮が成重山に籠った廖化を破った戦いです。

成重山の戦いが起きた経緯は、蜀の姜維が北伐を行い、羌族の治無戴を出迎え、廖化に成重山を守らせています。

成重山に籠城した廖化に対し、郭淮が攻撃を加えた事で、成重山の戦いが勃発しました。

成重山の戦いでは、廖化の軍が小数だった事もあり、姜維の援軍が来る前に、勝負は郭淮に軍配が上がっています。

成重山の戦いに関しては、正史三国志の郭淮伝に詳しく書かれています。

諸将の反対

西暦248年に羌族の反乱が多発し、姜維はそれに乗じて北伐を開始します。

姜維は羌族の治無戴を迎えると、陰平太守の廖化を成重山に配置し城を築かせました。

廖化は成重山に築いた城に籠り、籠城する事になります。

尚、この時の廖化が率いた兵数は記録がなく分かっていませんが、蜀軍の本隊は姜維が率いており、廖化の兵は少数だったと考えられています。

郭淮は軍を二つに分け、夏侯覇を姜維にぶつけ、自ら廖化が籠る成重山を陥落させようと考えます。

しかし、郭淮配下の諸将は軍を分けるのに反対し、多くの者が次の様に述べています。

諸将「姜維の軍は西方の強力な異民族と接しており、廖化は要害の地に陣を布いている。

我等が軍を分けて姜維と廖化の両軍に対処すれば、兵を分散させてしまいます。

これでは姜維を抑える事も出来ませんし、退いては廖化が籠る成重山を落とす事も出来ません。

軍を分けてしまっては、作戦自体が成り立たないのです。

それなら兵力を集中させ西方に向かい、異民族と姜維が結託する前に、その内と外を遮断してしまえばよいでしょう。

これこそが連合しようとする敵を打ち破るに最適な策となります」

郭淮の作戦では兵を分散させる事で、不利となると諸将は述べたわけです。

西暦238年に廖化が魏領に侵攻し、宕蕈を攻撃した事がありました。

郭淮は王贇游奕で廖化を挟み撃ちにしようと考えて、軍を二つに分けています。

しかし、この時は廖化の采配が光り、游奕を撃破し王贇を討ち取りました。

この戦いの敗因は郭淮が戦力を分散させた事で、各個撃破されてしまった事です。

今回も二の舞になると諸将は考えたのでしょう。

蜀軍でも前回の反省から、郭淮が軍を分散させないと考え、廖化を陽動部隊として派遣した可能性もあります。

郭淮が作戦を強行

諸将が軍を分けるのに反対する中で、郭淮は次の様に述べました。

郭淮「今、出撃して廖化を攻撃するのは、賊軍(蜀軍)の不意を衝く事になるはずだ。

さすれば、姜維は狼狽し、自ら援軍としてやってくるであろう。

姜維が到着する頃には、廖化が籠る成重山を平定出来ているはずだ。

この作戦であれば姜維を奔走させ、疲れさせる事になる。

兵を遠くまで西征させずに、異民族と賊軍の連合は解体する。

これこそが、一挙両得の策である」

郭淮は諸将の反対を押し切り、自らの作戦を決行し、夏侯覇を沓中に派遣し姜維を追わせ、自らは兵を率いて廖化の軍に攻撃を加えました。

郭淮の作戦は上手くいき、姜維は廖化を救う為に成重山に向かいますが、姜維が到着する前に郭淮は廖化を破り成重山を陥落させています。

廖化の軍は元々陽動の為の軍であったと考えられ、少数だった事もあり、郭淮の電光石火の攻撃の前に敗れてしまったのでしょう。

ただし、廖化は上手に撤退したのか大した損害は受けなかった様です。

その証拠に、翌年も蜀は軍事行動を起こしています。

郭淮は子午の役で魏延に敗れたり、宕蕈の救援で用兵の不味さを曹叡に指摘されるなどもありましたが、成重山の戦いを見るに、決して凡将ではない事が分かります。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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