三国志

石陽の戦い(226年)は文聘が孫権を退ける

2022年3月26日

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宮下悠史

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石陽の戦い西暦226年 
交戦勢力
司令官文聘孫権
兵力不明5万
損害不明不明

226年に勃発した石陽の戦いを解説します。

226年に魏の初代皇帝である曹丕が崩御します。

孫権は曹丕の死を知ると、石陽に五万の大軍を率いて自ら出陣しました。

石陽を守るは名将文聘だったわけですが、文聘は見事に城を守り抜き、呉軍を撤退に追い込んでいます。

226年の石陽の戦いを見ると、正史三国志と魏略で戦いに差異が出ている状態です。

今回は226年に行われた石陽の戦いを、正史三国志と魏略の両方の記述から解説します。

曹丕の死と孫権の出陣

西暦226年の7月に魏の初代皇帝である曹丕が亡くなりました。

曹丕の死因は肺炎だと考えられています。

この時に孫権は好機が来たと判断し、荊州攻略の着手に入りました。

孫権としてみれば、曹丕の死は魏から領土を攻め取る絶好の機会に見えたのでしょう。

さらに言えば、陸遜が夷陵の戦いで劉備を破った後に、魏は同盟を破棄し呉を攻撃してきました。

しかし、呉軍は魏軍の侵攻を許さず、魏の三方面作戦においても、呉の朱桓が曹仁を破り、呉の朱然や諸葛瑾が曹真を撃破し、呉の呂範、徐盛、全琮らが曹休を破りました。

曹丕は夷陵の戦い後から、3年間に渡り呉を攻撃しましたが、呉に全て撃退されたわけです。

孫権としてみれば「魏恐れずに足りぬ」と言った心が芽生え、石陽への進出を決めたのでしょう。

石陽は襄陽と合肥の中間地点にあり、文聘が守っていました。

尚、曹丕が夷陵の戦いの後に、蜀ではなく呉を攻め続けたお陰で、蜀では諸葛亮が国内を纏め南蛮征伐まで行う事が出来たとも言えます。

諸葛亮の北伐が始まるのが紀元前227年からであり、呉は曹丕の死に付け込んで、蜀とは連携せず、単独で魏を攻めたのでしょう。

石陽の戦いは、陳寿が書いた正史三国志の部分と、注釈の魏略で記述の差異が出ていますが、両方を解説します。

正史三国志の石陽の戦い

正史三国志の文聘伝によれば、下記の記述が存在します

「孫権は五万の軍勢を率いて自ら石陽を包囲した。

孫権は激しく石陽の城を攻撃したが、文聘は固守して動揺を見せなかった。

孫権は20余日に渡って石陽を攻撃したが、包囲を解いて撤退した。

文聘は孫権を追撃し打ち破った。

文聘は功績により五百戸を加増され1900戸になった。」

正史三国志の石陽の戦いを見ると、孫権は五万の大軍で石陽の城に攻撃し、文聘は城を堅固に守った事が分かります。

孫権が石陽を攻略出来ないと判断し、撤退した所で文聘は追撃を行い、追撃戦において多いに孫権軍を破った事になっていました。

孫権は合肥の戦いでも張遼楽進、李典らに退却途中に襲われ大敗していますし、石陽の戦いでも孫権の戦下手が目立つ展開となっています。

それに対し、文聘は城を堅固に守り、孫権が撤退する隙をついて追撃するなど、見事な采配が光る内容とも言えそうです。

正史三国志の記述から、文聘は五百戸の加増をされており、文聘が石陽の戦いで多いに孫権軍を破った事は確実でしょう。。

魏略の石陽の戦い

魏略によれば、数万の大軍を率いて孫権が石陽を攻めたとあります。

この時に大雨が降り、石陽の城の柵が崩壊し民衆は田野に散らばっていたとあります。

石陽の城の防御施設が壊れた状態で、孫権が攻め寄せて来るという最悪な状況だったわけです。

文聘は孫権の来襲を聞きますが、対策が思いつかず暫く悩んでいました。

文聘は結局、次の様な策を考え出します。

「孫権に疑念を抱かせる」

文聘は配下の者達に命じ城内を見えない様にし、自身は横になり宿舎から動こうとしませんでした。

孫権は文聘の行動を耳にすると、次の様に述べています。

孫権「北方の魏では文聘が忠臣だと考えているから、江夏や石陽を任せているのだ。

今、儂が大軍を用いて、石陽を攻略しようとしているのに、文聘は動かない。

これは文聘に何らかの策があり、必ずや外からの救援があるにに違いない」

孫権は文聘の行動に策があると判断し、思い切って攻撃せずに去ったとあります。

魏略だと諸葛亮が司馬懿に見せた空城の計に近い策を実行し、孫権を退けた事になっています。

正史と魏略のどちらが正しいのか?

石陽の戦いでは裴松之も指摘している様に、正史三国志と魏略で食い違いが出ている状態です。

正史三国志と魏略のどちらの記事が、信憑性があるかですが、個人的には陳寿が書いた正史三国志の記述が正しい様に思いました。

正史三国志の記述で文聘が石陽の戦いで孫権を退けた後に、五百戸の加増がされ1900戸になった記録があります。

こうした加増の記録は、保管されて残っているものだと考えれば、信憑性が高い様に感じます。

魏略の話だと文聘は追撃も行っておらず敵に損害を与えてもいません。

それを考えると、敵に損害を与えていないのに五百戸の大幅な加増は、明らかに不自然だと感じました。

五百戸の加増を考えると、正史三国志の記述が正しい様に思います。

ただし、魏略に書かれていないだけで、文聘が呉軍に対し、追撃戦を行ったとすれば、五百戸の加増があっても不思議ではないでしょう。

他にも、魏略の記述では文聘の一か八かの思い切った決断が光りますが、ドラマチック過ぎて信憑性に掛かるのではないでしょうか。

それでも、226年に行われた石陽の戦いで、孫権が敗れ文聘が城を守り抜いた事だけは間違いないと感じています。

尚、石陽の戦いの後である227年に、蜀では諸葛亮の第一次北伐が始り、呉では蜀と連携して魏に攻勢を掛ける事となります。

228年の石亭の戦いで呉は魏に大勝しますが、石陽の戦いで単独では魏に勝つ事は難しいと判断しての行動だと感じました。

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