審栄は正史三国志の武帝紀や袁紹伝に登場する人物です。
審栄は袁紹の重臣であった審配の兄の子であり、冀州魏郡陰安県の出身となります。
正史三国志でも三国志演義でも審栄は、審配の配下として鄴の戦いで登場するのみです。
審栄は東門校尉となり、鄴城の東門を守っていましたが、審配を裏切り曹操を城内に招き入れました。
曹操は審栄の裏切りにより、袁家の本拠地である鄴を取る事が出来たわけです。
曹操は審配を高く評価しており、審配に審栄が裏切った事を告げると、審配は審栄を罵った話があります。
今回は審配の甥で、曹操を鄴城の中に導き、勝利するきっかけとなった審栄を解説します。
正史三国志の審栄
東門を開ける
官渡の戦いで袁紹が敗れ、袁紹が202年に没すると後継者をはっきりと決めなかった事で、袁譚と袁尚で後継者争いを繰り広げました。
審配は逢紀と共に三男の袁尚を支持しており、審栄も叔父に従い袁尚陣営にいたのでしょう。
袁譚と袁尚の後継者争いは、袁尚が優勢となりますが、劣勢に立った袁譚は郭図の策を実行し曹操を招き入れました。
曹操は鄴を攻撃すると、袁尚は袁譚との戦いをやめ、審配や審栄が守る鄴の救援に赴く事となります。
しかし、曹操は後詰の袁尚を攻撃すると大勝し、曹操は審配が守る鄴を再度攻撃しました。
袁尚は体制を立て直す事も出来ず、兄の袁煕と共に北方に逃走する事になります。
曹操は鄴に攻め寄せてきますが、この時に東門校尉として、東門を守っていたのが審栄です。
袁紹伝によると、曹操は袁尚から奪った印綬や節鉞、衣服、器物などを鄴の城内に示すと、城中は大混乱に陥りました。
この時に審配は、辛評の家族を殺害するなどの行為に出た話があります。
こうした中で、次の様な記述が袁紹伝に存在します。
※正史三国志 袁紹伝より
審配の兄の子の審栄が東門を守備していたが、夜になって城門を開き太祖(曹操)の軍を招き入れた。
上記と同じ記述が正史三国志の武帝紀にもあり、審栄が叔父の心配を裏切り城門を開いた事は間違いないでしょう。
審配は袁氏にとって忠義の臣であり、裏切るという事を知らない人物ではありますが、袁尚が敗れた事を知った審栄は、勝ち目はないと判断し曹操に寝返ったと見る事も出来ます。
この後に、曹操は審配と市街戦を繰り返し、審配を捕虜とする事に成功しました。
審配に罵られる
審配は捕らえられますが、辛毗と言い争うなど心は高ぶったままでした。
こうした中で、曹操は城門を開けたのは、審栄だと審配に告げる事になります。
曹操は審配が忠義の臣だと知っており、高く評価し配下に加えたいと考えていました。
曹操にしてみれば、兄の子である審栄が裏切ったと知れば、審配は落胆し大人しくなり、自分の話を聞いてくれるのではないか?と期待したのかも知れません。
しかし、審配の気持は収まる事はなく、審栄に対し「役立たずの分際で余計な事をしおって」と罵りました。
曹操は審配を配下にしたかったわけですが、辛毗や張子謙など審配に殺意を抱く者も多くおり、審配自身も死を望んだ事から周囲を怒鳴りつけ最後を迎えています。
審栄が審配を裏切った理由ですが、審配は忠義の臣ではありますが、官渡の戦いでは前線にいた許攸の家族を捕えるなど、融通が利かない部分があります。
実際に孔融は審配を忠臣だと評価しましたが、荀彧は「独りよがりで無策」と評しています。
こうした審配の性格を甥の審栄が嫌っていた可能性もあると感じました。
尚、審栄は西暦204年からは曹操に仕えたはずですが、これ以降の記録がなく、どんな最後を迎えたのかも分かっていません。
三国志演義の審栄
三國志演義にも審栄は登場しますが、審栄が登場するのは正史三国志と同様に鄴の戦いの時のみです。
ただし、三国志演義では審栄が辛毗と深い交わりを結んでいた設定が追加されています。
正史三国志と同じように曹操は袁尚の軍を破り、鄴の城を包囲しますが辛毗が城を降伏させようとし、戦利品であった袁尚の印綬や衣服を示しました。
これを見ていた審配は激怒し、城内にいた辛毗の家族や一族を皆殺しにしてしまったわけです。
辛毗は泣き叫び、この声を審栄も聞く事になります。
鄴の城中では飢えに苦しみ、こうした中で審栄は友人の辛毗の事など、思う部分があり次の記述に繋がります。
※完訳三国志三巻 岩波文庫72頁より
辛毗が城下で泣き叫ぶのを見て、ひそかに、城門を開く盲の手紙をしたため、矢にくくりつけて、城下に射おろさせた。
兵士が審栄の矢文を拾うと、兵士は手紙を辛毗に渡し、辛毗は曹操に渡しました。
あくる日の夜明けに、審栄は西門を開け曹操の軍勢を城内に引き入れる事になります。
この後に、曹操が裏切ったのは審栄だと、審配に告げ、審配が審栄を罵るシーンは正史三国志と同じです。
三國志演義も正史三国志と同様に、これ以降に審配の記述が存在しません。