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逢紀は破滅型の軍師なのか

2023年2月16日

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宮下悠史

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名前逢紀(ほうき) 字:元図
生没年生年不明-202年
時代後漢末期、三国志
勢力何進袁紹→袁尚
年表200年 官渡の戦い
画像©コーエーテクモゲームス

逢紀は正史三国志や後漢書に名前がある人物です。

袁紹を初期から支えた参謀とも言えるでしょう。

逢紀は公孫瓚を南下させ韓馥を恐れさせるなど、策士としての一面も見せており、有能な人物と評価される事もあります。

しかし、逢紀の讒言により田豊が処刑されたり政争を繰り返すなど、破滅型の軍師とされる場合もあります。

それでいて政敵で仲が悪かった審配を庇うなどをした記録もあり、佞臣というわけでもなかったのでしょう。

ただし、逢紀は権力を得ようと考え、破滅した様に見えなくもありません。

今回は三国志の中でも物議を醸した逢紀を解説します。

尚、逢紀の事を孔融は「忠義の臣」と評価していますが、荀攸は「向こう見ずな性格で独断で動く」と評価しています。

袁紹に付き従う

逢紀ですが荊州南陽郡の出身だと伝わっています。

逢紀は大将軍の何進により取り立てられました。

何進の腹心には袁紹がおり、この時には袁紹と逢紀の間に接点があったのでしょう。

何進は宦官を一掃させようとしますが、逆に宦官に討たれてしまいました。

この時に、混乱があり少帝らを保護した董卓が実権を握っています。

袁紹は後に董卓と対立し冀州に出奔しますが、逢紀と許攸が付き従ったとあります。

それを考えると、逢紀は袁紹の最古参とも言える臣下だったはずです。

袁紹は逢紀が聡明で計略に長けていた事を気に入り、共に旗揚げしたとあります。

袁紹は逢紀を信頼し、共に行動したのでしょう。

逢紀の策

袁紹は反董卓連合の盟主となりますが、後に連合は解散し群雄割拠状態となります。

この時の袁紹は名声はありましたが、地盤が皆無と言ってよく窮地に陥っていたわけです。

こうした中で、191年に韓馥配下の麹義が袁紹に降伏してきました。

逢紀は袁紹には、次の様に進言しています。

※英雄記より

逢紀「将軍(袁紹)は大事に踏み切ったにも関わらず、補給を他人に頼っている状態です。

一州を支配しなければ、自身の安全すら保つ事は難しいでしょう」

逢紀は冀州を取らなければ、安全すら保てないと述べた事になります。

袁紹は次の様に返しました。

袁紹「冀州の兵は強く、それに比べ我が軍は飢えに苦しんでいる状態だ。

もし、何かしらの手が打てなければ、身の置き場もないであろう」

この時の袁紹はただの渤海太守に過ぎず、それに比べ韓馥は冀州の主であり、戦力は段違いだったわけです。

ここで逢紀は次の様に進言しました。

逢紀「公孫瓚を動かし韓馥を攻めさせるべきです。

公孫瓚は冀州が肥沃な事を知っており、必ずや南下してきます。

そうなれば、韓馥は必ずや公孫瓚を恐れる事でしょう。

この時に韓馥に使者を派遣し、利害を説けば必ずや袁紹様に冀州を譲ってくれるはずです」

逢紀は公孫瓚を使って韓馥を恐れさせた上で、袁紹に冀州を譲る様に持ち掛けるべきだと説きます。

袁紹が逢紀の言った通りにすると、公孫瓚は南下し、袁紹は荀諶や高幹などを派遣し韓馥を説得しました。

韓馥は耿武や趙雲などの諫めも聞かず、袁紹に冀州を明渡したわけです。

逢紀の策は見事的中し、袁紹は瞬く間に冀州の主となります。

ただし、この時に沮授審配田豊張郃らが袁紹の配下となり、逢紀と審配、田豊らは非常に仲が悪かった話があります。

田豊の処刑

田豊は袁紹の軍師の様な存在であり、公孫瓚討伐においては抜群の実績があったわけです。

しかし、逢紀は田豊を嫌っており、何度も讒言した事で、袁紹は田豊を嫌う事になります。

官渡の戦いの前に、田豊は持久戦を主張し、袁紹の怒りを買い投獄されていますが、逢紀が何度も袁紹を讒言したからではないか?とも考えられています。

官渡の戦いでは序盤戦で顔良文醜が討たれながらも、袁紹は曹操を追い詰めますが、逢紀と共に最古参の武将である許攸が、曹操軍に寝返りました。

許攸は曹操に袁紹軍の兵糧庫が烏巣にあり、淳于瓊が守っていると告げます。

曹操は楽進と共に烏巣を急襲し、烏巣の戦いで淳于瓊を斬りました。

袁紹は兵糧庫を焼かれ敗北が決まると「田豊の言う事を聞いておくべきだった」と後悔の言葉を口にしています。

袁紹の言葉を聞いた逢紀は、次の様に述べました。

※先賢行状より

逢紀「田豊は敗報を聞くや、手を叩いて大笑いし、自分の言葉が的中したと喜んでいました」

逢紀の言葉に怒った袁紹は、田豊を処刑してしまったわけです。

これが真実であれば、逢紀は、かなりの酷い事をしたとも言えるでしょう。

尚、袁紹が田豊を殺害する行為は、暴君と呼ばれた項羽以下だと評価されたりもしている状態です。

袁紹が逢紀の讒言で田豊を殺害したのが本当であれば、逢紀は主君の袁紹にまで恥をかかせた事になるでしょう。

ただし、田豊は後方の獄に繋がれているはずであり、逢紀がなぜ田豊の様子を知っているのか?という問題もある様に感じています。

審配を庇う

官渡の戦いの時に、審配の二人の子が曹操軍の捕虜になってしまいます。

この時に、審配と仲が悪かった孟岱が、蔣奇を使って審配を讒言しました。

蔣奇の言葉に郭図や辛評なども賛同しています。

袁紹は審配に変えて孟岱に鄴を守備させようと考えました。

逢紀も審配と仲が悪かったわけですが、袁紹には次の様に進言しています。

逢紀「審配は真っすぐな性格をしており、義に厚い人柄です。

それ故に、審配は二人の息子が曹操に捕らえられても裏切る事はありません」

逢紀は審配を庇ったわけです。

袁紹は逢紀が審配を嫌っている事を知っており、驚いて「其方は審配を嫌っていたのではないか?」と問うと、逢紀は次の様に答えました。

逢紀「私が審配を嫌っているのは私情であり、今の私が述べているのは国事であります」

逢紀は田豊の時とは人が変わってしまったかの如く、審配を庇ったわけです。

袁紹は逢紀の言葉に感じ入る部分があり、審配を罷免するのを取りやめました。

審配の方でも逢紀が自分を庇ってくれた事を知ると、仇敵の間柄から良好な関係に変わって行ったとされています。

ただし、後に審配が逢紀が亡くなった時の言葉を考えると、本当に仲直りしたのかは疑問が残ります。

尚、逢紀が審配を庇った理由は、袁家の後継者争いが裏にはあったのではないか?とも考えられています。

袁紹の長子である袁譚は郭図や辛評が推しており、袁譚は審配や逢紀は性格的な問題もあり嫌っていました。

審配は三男の袁尚派であり、逢紀も袁譚に嫌われており、袁尚が後継者になってくれた方が都合がよかったわけです。

袁紹が審配を遠ざけてしまえば、逢紀が所属する袁尚派が弱体化する事を危惧し、審配を庇ったのではないか?とする説があります。

袁尚を後継者とする

後漢書によると、袁紹が202年に亡くなった時に、逢紀と審配は袁紹の遺言書を捏造し、三男の袁尚を後継者にしたとあります。

ただし、生前の袁紹が袁尚を可愛がり、後継者にしようとしていたともされており、袁紹が袁尚を後継者に指名した可能性も残っている様に思います。

それか、袁紹が後継者を指名せず亡くなってしまった事で、逢紀と審配が袁尚を後継者にしてしまった可能性もあるでしょう。

しかし、三男の袁尚が後継者になる事を袁譚は納得する事が出来ず、挙兵しました。

尚、逢紀や審配が袁尚を後継者にしてしまった事で、お家騒動が始り袁氏が滅んだとする指摘もあります。

逢紀の最後

曹操は袁譚と袁尚が争いを始めた事を知ると、攻撃を仕掛けてきました。

外部の曹操が攻めて来たとなれば、袁譚や袁尚も争いをやめ手を結ぶ事になります。

袁尚は兄の袁譚の救援として、兵士を派遣し監視役として逢紀を付けています。

袁尚の援軍が少なかった事もあり、袁譚は曹操に敗れ「もっと兵を送って欲しい」と袁尚に依頼しました。

しかし、袁尚は袁譚が強大になってしまっても困る事から、兵を出すのを拒否しています。

これに袁譚は激怒し、監視役だった逢紀を処刑してしまいました。

これにより逢紀は最後を迎えたわけです。

後に審配が袁譚に送った手紙の中で、袁譚が逢紀を処刑した事を喜び、袁尚も逢紀の家族を処刑したと述べています。

過去に逢紀が審配を庇った事で、二人は仲直りしたはずですが、審配の手紙を見る限りだと、不仲のままだったのではないか?とも考えられています。

逢紀の評価

逢紀ですが、公孫瓚を動かし袁紹に冀州を取らせた話を見る限りだと、優れた謀臣だと感じます。

しかし、後に田豊を讒言した所を見ると、性格に問題があったようにも感じました。

逢紀を見ていると、能力があっても残念な性格が足をひっぱり、破滅を迎えたとも感じています。

ただし、逢紀の場合は悪さ加減が目立ち、史書に書かれている全てが事実とは思えない部分もあります。

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