名前 | 辰韓(しんかん) |
登場 | 正史三国志 |
コメント | 古代朝鮮東部に存在した |
辰韓は馬韓や弁韓と共に三韓の一つに数えられる国(地域)であり、この地域から新羅が誕生する事になります。
辰韓は12カ国からなり、秦の労役を逃れてやってきた人々が住んだ国だとも伝わっています。
その為、辰韓は秦韓とも呼ばれているわけです。
ただし、辰韓の人々が秦から逃れてきた人たちならば、辰韓の人々は難民だったり亡命者だった事になります。
馬韓は54カ国もあるのに対し、辰韓は12カ国しかなく、馬韓に比べると人口も少ないと言えるでしょう。
しかし、辰韓の斯蘆国が新羅に発展し、後に百済や高句麗を駆逐し、朝鮮半島を統一する事になります。
それを考えれば、貧しいと考えられる新羅にも天下統一の下地があったとも考えられます。
辰韓の誕生
正史三国志の東夷伝によれば、辰韓は馬韓の東にあったと言います。
さらに、古くからの言い伝えでは、自分達は秦の労役から逃れて韓の国にやってきたと述べています。
辰韓の民が韓にやってきた時に、馬韓の人々が東部の土地を割譲して住まわせてくれたと正史三国志に記録されています。
それを考えれば、秦の労役を嫌い難民となり馬韓の地にやってきた事になるはずです。
馬韓は辰韓に土地を割譲したとある様に、難民を受け入れた事になります。
ただし、馬韓も無条件で辰韓の民を受け入れたわけではなく、辰王の位は馬韓の者がなったと言います。
それを考えれば、辰韓は統治者は馬韓の者で、民衆は辰韓の民という事になるのでしょう。
正史三国志の注釈・魏略には「辰韓の民は流亡の民だからこそ馬韓の支配下にある」と記載されているわけです。
ただし、正史三国志の東夷伝の韓人の条において、最初に馬韓、弁韓、辰韓を紹介し、その後に下記の記述が存在します。
※正史三国志 東夷伝
辰韓というのは、古の辰国の事である。
上記の記述から、過去には大国だった辰国があり、小さくなりながらも存続したのが辰韓だった様な書き方をしているわけです。
辰韓の成り立ちに関しては不明瞭な部分が多いと言えるでしょう。
尚、正史三国志が書かれた時代であっても辰韓を秦韓と呼ぶものがいると言います。
因みに、倭の五王は東晋などの南朝に朝貢を行い下記の位を望みました。
使持節 都督 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王
上記を見ると秦韓の言葉が入っている事が分かるはずです。
それを考えれば、辰韓が秦韓と呼ばれていたのは、本当の事だったのでしょう。
弁韓12カ国
辰韓に属する国は最初は6カ国でしたが、最終的に12カ国まで増えたと伝わっています。
下記が正史三国志に記載されている辰韓12カ国です。
已柢国 | 不斯国 | 勤耆国 |
難弥離弥凍国 | 冉奚国 | 軍弥国 |
如湛国 | 戸路国 | 州鮮国 |
馬延国 | 斯盧国 | 優由国 |
正史三国志によれば弁韓と辰韓で合わせて24カ国あり、大きな国は四、五千、小さな国で六、七百家あり全体では4,5万戸だと伝わっています。
それが真実であるならば、倭国最大の国である邪馬台国の7万戸と比べると都市の大きさは、かなり小さめだと言えるでしょう。
倭国第二の国である投馬国でも5万余戸とする記述があり、弁韓と辰韓の全ての国を合わせたよりも大きいと考える事が出来ます。
弁韓、辰韓は大穀倉地帯を持つ馬韓に比べると、平地の面積が低い事もあり、人口が伸び悩んだ様にも感じています。
尚、辰韓の斯蘆国が発展し新羅になったと伝わっています。
辰韓の暮らし
辰韓では居住地の周りに柵や城壁があったと記録されています。
倭国の邪馬台国にも城壁と柵があった記述が存在します。
それに対し馬韓には城郭が無かったと記載されており、辰韓や倭国は馬韓とは違った防御態勢を取っていた事が分かります。
辰韓が秦からの亡命者の集団であるのならば、戦国七雄の戦いや楚漢戦争なども知っていた可能性があり、城郭の重要性が分かっていたはずです。
倭国も倭国大乱の影響もあり城郭や柵があったのでしょう。
馬韓とは別の民族だった!?
三韓は馬韓、弁韓、辰韓の三国を指し同じ韓族であり、似たような民族に思うかも知れません。
しかし、正史三国志の韓伝によると、馬韓と辰韓は言語が異なっていたとあります。
辰韓では国の事を「邦」と言うなど、次の様な言葉を使っていたと言います。
国 | 邦 |
弓 | 弧 |
賊 | 寇 |
行酒 | 行觴 |
さらに辰韓の人々は自分達の事を「徒」と呼ぶなど、秦の人の言葉と類似点があったと言います。
辰韓と秦の言葉の類似点が多いのであれば、辰韓の人々が秦からの亡命者(難民)だと言うのも全くの嘘という訳でもないのでしょう。
ただし、朝鮮から比較的近い燕や斉の民との共通点もそれなりにあった様で、完全なる秦からの避難民だと断定する事も出来ない様です。
天下統一後に始皇帝は万里の長城や阿房宮など土木工事に熱中しましたが、それらの労役を嫌がり朝鮮半島の南部まで逃亡した人々の子孫が辰韓だったとみる事も出来るはずです。
戦国の秦だけではなく燕や斉などの民も含まれていたのかも知れません。
尚、京都の松尾大社や伏見稲荷大社も秦の末裔を名乗っており、秦から来た人々の話しは朝鮮半島だけではなく、日本にもある状態です。
他にも、日本の渡来系の豪族である秦氏は、月弓君を祖としており、月弓君が秦韓と関係しているのではないかとする説もあります。
阿残
辰韓では北部の楽浪郡の事を「阿残」と呼ぶと正史三国志の韓伝にあります。
阿残と呼ぶ理由も書かれており東方の人々は自分達の事を「阿」と呼び、楽浪郡の人々は自分達の残余である為に「阿残」と呼ぶのだと言います。
ここでいう東方は当時の中華の中心地である長安や洛陽などから見て、東方にある燕や斉の地を指し、さらに東にある楽浪郡に対し「阿残」と呼んだのでしょう。
辰韓の奇妙な風習
魏志韓伝によると、辰韓では子供が生まれると、直ぐに石で頭を抑えつけたとあります。
子供の頭を石で抑えつける事で、頭の形を扁平にしようとした話が掲載されています。
それを考えると辰韓の人々の頭は現代で言う「絶壁」になるのでしょう。
魏志韓伝によれば、辰韓の人々は頭がみな扁平だったとあり、頭の形が絶壁というのが辰韓のトレンドだった事にもなるはずです。
辰韓の人々がなぜ絶壁頭を好んだのかは分かっていません。