春秋戦国時代

秦の懐公は臣下に囲まれ自害した

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宮下悠史

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名前秦の懐公
生没年生年不明ー紀元前425年
在位紀元前428年ー紀元前425年
一族父:厲共公 兄:躁公 子:昭子、簡公 孫:霊公
コメント庶長の鼂らにより自害に追い込まれた。

秦の懐公は春秋戦国時代の君主です。

兄の躁公が亡くなると、から帰国し秦公となりました。

ただし、在位4年目の紀元前425年に、庶長の鼂の襲撃により自害しています。

大臣との権力闘争に敗れた結果として、自害に追い込まれてしまったのでしょう。

秦の懐公は在位期間が短いのもありますが、史記の秦本紀を見ても、実績は書かれておらず、何をしたのかも不明です。

懐公の太子の昭子は、既に亡くなっており、孫の秦の霊公が後継者となりました。

秦の懐公の即位

秦の懐公は兄の躁公が亡くなると、秦君となりました。

この時に、秦の懐公がから帰国して、の君主になった話があります。

何故、秦の懐公が魏にいたのかは、はっきりとしません。

戦国時代の後期であれば、太子が人質に出される事もありましたが、戦国時代の初期の段階では秦が魏に人質を出す様には思えません。

それらを考慮すると、何からの理由があり、兄の躁公と対立し、秦の懐公は魏に亡命したという事はないでしょうか。

真相は不明ですが、躁公が亡くなった時に、秦の懐公が秦にいなかった事だけは間違いなさそうです。

秦の懐公の最後

史記の秦本紀によると、秦の懐公の4年(紀元前425年)に、庶長の鼂が大臣らと共に、秦の懐公を囲んだと言います。

庶長の鼂らの攻勢の前に、秦の懐公は助からないと判断したのか自害しました。

これにより秦の懐公は最後を迎えています。

秦の懐公の太子だった昭子が先に亡くなっていた事で、昭子の子の秦の霊公が後継者になっています。

秦の懐公は何故自害に追い込まれたのか

秦の懐公は在位僅か4年で、世を去りましたが、史記には簡略な記述しかありません。

しかし、では政治闘争があったとみる事が出来るのではないでしょうか。

秦の懐公は兄の躁公が亡くなった時に、にいた事が分かっています。

なぜ魏にいたのかは不明ですが、秦の景公の時代に弟の后子鍼が、に亡命した話があります。

后子鍼は多くの財産を持っていましたが、讒言により景公の信頼を失い晋に亡命しました。

歴史は繰り返すと言いますが、同じように秦の懐公も力を持った世族との抗争で、魏に亡命したという事はないでしょうか。

后子鍼は晋の景公が亡くなると帰国しましたが、同じように秦の懐公も兄の躁公が亡くなると、秦に帰国した様に感じています。

しかし、秦の公子と世族の大臣達の抗争は収まらず、結果として大臣達が秦の懐公を急襲し、秦の懐公は自害したのではないかいと感じています。

先代:躁公懐公霊公

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