
ただし、在位4年目の紀元前425年に、庶長の鼂の襲撃により自害しています。
大臣との権力闘争に敗れた結果として、自害に追い込まれてしまったのでしょう。
秦の懐公は在位期間が短いのもありますが、史記の秦本紀を見ても、実績は書かれておらず、何をしたのかも不明です。
懐公の太子の昭子は、既に亡くなっており、孫の秦の霊公が後継者となりました。
秦の懐公の即位
秦の懐公は兄の躁公が亡くなると、秦君となりました。
この時に、秦の懐公が魏から帰国して、秦の君主になった話があります。
何故、秦の懐公が魏にいたのかは、はっきりとしません。
戦国時代の後期であれば、太子が人質に出される事もありましたが、戦国時代の初期の段階では秦が魏に人質を出す様には思えません。
それらを考慮すると、何からの理由があり、兄の躁公と対立し、秦の懐公は魏に亡命したという事はないでしょうか。
真相は不明ですが、躁公が亡くなった時に、秦の懐公が秦にいなかった事だけは間違いなさそうです。
秦の懐公の最後
史記の秦本紀によると、秦の懐公の4年(紀元前425年)に、庶長の鼂が大臣らと共に、秦の懐公を囲んだと言います。
庶長の鼂らの攻勢の前に、秦の懐公は助からないと判断したのか自害しました。
これにより秦の懐公は最後を迎えています。
秦の懐公の太子だった昭子が先に亡くなっていた事で、昭子の子の秦の霊公が後継者になっています。
秦の懐公は何故自害に追い込まれたのか
秦の懐公は在位僅か4年で、世を去りましたが、史記には簡略な記述しかありません。
しかし、秦では政治闘争があったとみる事が出来るのではないでしょうか。
秦の懐公は兄の躁公が亡くなった時に、魏にいた事が分かっています。
なぜ魏にいたのかは不明ですが、秦の景公の時代に弟の后子鍼が、晋に亡命した話があります。
后子鍼は多くの財産を持っていましたが、讒言により景公の信頼を失い晋に亡命しました。
歴史は繰り返すと言いますが、同じように秦の懐公も力を持った世族との抗争で、魏に亡命したという事はないでしょうか。
后子鍼は晋の景公が亡くなると帰国しましたが、同じように秦の懐公も兄の躁公が亡くなると、秦に帰国した様に感じています。
しかし、秦の公子と世族の大臣達の抗争は収まらず、結果として大臣達が秦の懐公を急襲し、秦の懐公は自害したのではないかいと感じています。