
| 名前 | 秦の恵公 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前491年 |
| 在位 | 紀元前500年ー紀元前491年 |
| 一族 | 父:夷公 子:悼公 |
| コメント | 実績が伝わっていない君主 |
秦の恵公は春秋時代の秦の君主です。
戦国時代にも秦の恵公はいますが、ここで紹介する恵公は春秋時代の秦の君主の方です。
祖父の秦の哀公の在位は36年にも及び、この間に太子だった夷公が先に亡くなりました。
夷公の子が秦の恵公であり、こうした事情もあり秦の哀公が亡くなると後継者になっています。
史記の秦本紀を見ると、秦の恵公の実績に関しては記録されておらず、孔子や隣国の晋の六卿の争いなどが記載されています。
春秋左氏伝でも、秦の恵公の実績は記録されておらず、紀元前491年に葬られた事だけが記録されました。
こうした事情から、秦の恵公の実態は「分からない」としか言いようがないでしょう。
秦の恵王の時代の出来事
史記の秦本紀によると、秦の恵公の元年(紀元前500年)に、孔子が魯の相事を行ったとあります。
司馬遷は孔子を敬慕していたのか、史記のあちこちに突如として、孔子の記述が挿入されています。
秦の恵公の5年(紀元前496年)に、晋の六卿の中行氏と范氏が晋に背き、晋では智文子と趙簡子が討伐をおこなったとあります。
中行氏と范氏は斉に逃亡しました。
秦の恵公の時代に、既に晋では公室が弱体化し、六卿同士の争いとなりましたが、中行氏と范氏の敗北は六卿の中にも脱落者が出た事をさすのでしょう。
これが史記の秦本紀に書かれた秦の恵公の時代ですが、秦の恵公に関しては一切の記録がありません。
秦の恵公の最後
史記によると秦の恵公は在位10年で亡くなったと記載されています。
秦の恵公は紀元前491年に亡くなった事になるのでしょう。
春秋左氏伝では、魯の哀公の4年(紀元前491年)の記述に「秦の恵公を葬る」と書いてあるだけであり、伝文は伝わっていません。
春秋左氏伝では、今までは秦の君主が亡くなると「秦伯卒す」と記載されていましたが、「秦の恵公を葬る」に代わった事が分かるはずです。
秦と魯の間には、晋があり既に混乱の時代となっており、昔に比べると情報が上手く伝わっておらず、表記が代わった可能性があるのではないでしょうか。
秦の恵公の実績が伝わらなかった理由
秦の恵公の実績が伝わらなかった理由ですが、秦の恵公の時代に軍事衝突が無かったからではないでしょうか。
秦の景公の時に秦との間で講和が成立し、晋との争いや止みました。
秦は楚との関係も良好であり、秦の恵公は戦争を行ってはいません。
戦争と言うのは、死者も多数出るわけであり、人々の記憶にも残りやすいと言えます。
その半面で、戦争がないという事は、人々の記録にも残らず、実績として伝わらなかったのではないでしょうか。
ただし、外部との戦争が無くなれば、内部で争うのが世の常であり、秦の恵公の時代でも、細やかな内部闘争はあったのかも知れません。
| 先代:哀公 | 恵公 | 次代:悼公 |