
| 名前 | 晋の景公 |
| 姓・諱 | 姫拠 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前581年 |
| 在位 | 紀元前600年ー紀元前581年 |
| 時代 | 春秋戦国時代 |
| 一族 | 父:成公 子:厲公 |
| 年表 | 紀元前597年 邲の戦い |
| 紀元前585年 新絳に遷都 | |
| コメント | 晋覇の最低の時期を経験した。 |
晋の景公は春秋時代の晋の君主です。
楚の荘王との邲の戦いで敗れた事で、晋の諸侯同盟から離脱する者が多くなり、晋覇の最低の時期を経験しました。
しかし、その後は晋の覇者体制の復興を目指し、諸侯の多くを同盟に復帰させたりもしています。
晋覇の最低の時期を経験しながらも、復調させたとも言えるでしょう。
韓厥の進言もあり、新絳に遷都するなども成し遂げました。
晋の景公の最後は不思議な夢を見て病で亡くなった話があります。
この夢が「病膏肓に入る」の故事成語にもなっています。
晋の景公の即位
晋の景公は父親である晋の成公が亡くなると、晋の君主となりました。
晋の成公は諸侯との扈の会盟を済ませた後に亡くなったのであり、景公の即位は慌ただしいものだったのではないでしょうか。
晋の景公の方でも、父親の成公が「会盟先」で亡くなるとは思っておらず、驚いたと感じています。
景公が即位した頃は、楚の荘王の時代であり、晋にとっては苦難の時代だったと言えるでしょう。
史記では景公が即位した時の出来事として、陳の大夫の夏徴舒が、主君の陳の霊公を弑した事件を記載しました。
さらに、楚の荘王が陳を討ち、夏徴舒を殺害した事が記載されています。
鄭を巡る戦い
紀元前599年に鄭が楚と講和しており、晋の景公は晋、宋、衛、曹の諸侯の軍で鄭に迫り和議を結ばせて帰還しています。
鄭が晋に味方したり、楚に味方したりする動きは、晋の成公の時代から続いており、景公の代でも継続されたという事なのでしょう。
楚の荘王は同年に鄭に侵攻しますが、晋の景公は士会に命じて鄭を救援させました。
士会の軍は救援に成功し、諸侯の軍は鄭を守備しています。
邲の戦い
紀元前597年に楚の荘王が鄭を攻撃し、鄭の襄公は楚に降りました。
晋の景公は鄭の救援の為に、下記の陣営で軍を発しています。
| 中軍の将:荀林父 | 上軍の将:士会 | 下軍の将:趙朔 |
| 中軍の佐:先縠 | 上軍の佐:郤克 | 下軍の佐:欒書 |
さらに、趙括、趙嬰斉、鞏朔、韓穿、荀首、趙同、韓厥が出動するなど、晋の景公は万全の状態で、晋軍を送り出したと言えるでしょう。
しかし、晋軍の内部は一致団結しておらず、纏まりに欠ける状態でした。
晋と楚の間で遭遇戦による邲の戦いが行われる事になります。
晋と楚による大規模な戦いは、城濮の戦い以来となるのでしょう。
邲の戦いでは、楚の孫叔敖の好判断もあり、楚が晋を圧倒しました。
戦いに敗れた総大将の荀林父は死を望むと、晋の景公は許そうとしましたが、士渥濁の諫言により、荀林父を元の位に戻しています。
邲の戦いにより、晋は覇権を失ったと考えられがちですが、同年に晋の先縠が宋、衛、曹と清丘で会盟を行っており、晋の覇者体制が崩壊したわけでもないのでしょう。
紀元前597年に赤狄が晋に侵攻していますが、先縠が晋を裏切った事が原因です。
晋の景公の時代に、先縠の一族は滅亡するに至りました。
赤狄を破る
赤狄の潞氏嬰児の妻の伯姫は、晋の景公の姉でした。
しかし、酆舒が権力を握ると、伯姫は殺害され、潞氏嬰児は目を負傷する事態となります。
晋の景公は赤狄を攻撃しようとしますが、晋の大夫達は酆舒を危険視しており「攻めてはならない」と反対しました。
ここで、伯宗が「赤狄には五罪がある」と強く主張する事になります。
晋の景公は伯宗の意見に従い、荀林父に兵を率いて赤狄を攻撃させました。
荀林父は曲梁の戦いで、赤狄を破る事になります。
同年に晋の景公は荀林父や士会(士貞子)に恩賞を与え、羊舌職は称賛しました。
紀元前593年には士会の活躍もあり、晋は赤狄の地を平定する事になります。
赤狄は晋と衛の間にある太行山脈の西麓の勢力であり、赤狄を併呑する事で、東方進出への道を確保したと言えるでしょう。
赤狄を攻略した事で、鄭を楚に抑えられても、東方に進出できる利点を得ました。
この年に、秦の桓公が晋に侵攻しますが、これも破っています。
これだけを見ると、晋の復調が見られるわけですが、全体的に考えれば紀元前594年に宋が楚に降っており、晋覇の体制は最低の時期を迎えたと言えるでしょう。
晋の景公と郤克
紀元前592年に晋の景公は郤克を斉に派遣し、断道の会に参加する様に要請しました。
この時に、斉の頃公の母親である蕭同叔子が郤克の姿を見て、大笑いしました。
プライドを傷つけられた郤克は晋に戻ると「斉を攻撃したい」と告げますが、晋の景公は許しませんでした。
史記では晋の景公が「其方の恨みは国家を煩わせるほどのものであろうか」と述べた話が残っています。
しかし、当然ながら郤克の斉に対する恨みは消えなかったわけです。
断道の会
晋の景公は紀元前592年に断道の会を主催する事になります。
この時に、斉の頃公は郤克の怒りを怖れたのか、自らは参加せず高固、晏弱、蔡朝、南郭偃を派遣しますが、高固だけは晋を怖れ引き返しました。
晋の景公が断道の会を主催した理由は、同盟から離脱した宋、鄭、陳、蔡の国々をどうするか協議する為でした。
しかし、晋の景公は斉の晏弱、蔡朝、南郭偃を抑留してしまいますが、苗賁皇が晏弱を庇ったので、晏弱は逃亡しています。
尚、断道の盟では魯の同盟復帰が確認出来ており、晋の覇者体制の復活の予兆が見られました。
晋と斉の戦い
紀元前591年に晋の景公は衛の太子臧(衛の定公)と共に、斉を攻撃しました。
斉の頃公は晋の景公との会合に応じ、繒で会盟を行い斉から晋に公子彊を人質としています。
この年に楚の荘王が亡くなりました。
紀元前590年に晋の景公は瑕嘉を派遣し、戎と東周王朝の争いを調停しています。
紀元前589年には晋は衛・魯の要請により、鞍の戦いで斉に勝利しました。
鞍の戦いで勝利した晋は袁婁で会盟を開いています。
尚、この年に晋に巫臣と夏姫が亡命してきました。
晋の景公は巫臣を邢の大夫としています。
覇者体制の復調
紀元前588年に晋の魯・宋・衛・曹と共に鄭を攻撃しました。
ここで鄭の攻撃に宋が参加している事が確認でき、宋が晋の覇者体制に復帰した事が分かるはずです。
紀元前586年の虫牢の会では、晋・斉・魯・宋・衛・鄭・曹・邾・杞の諸侯が集まっており、晋覇の復調が見られました。
この頃から、晋の諸侯同盟が楚を上回る様になります。
晋の景公は邲の戦いで楚の荘王に敗れ晋の覇権が最低レベルになったにも関わらず、春秋五覇の一人として数えられる事があるのは、虫牢の会による成功の部分が大きいのでしょう。
新絳に遷都
晋の景公の時代に、絳から遷都する話が持ち上がりました。
大夫の多くは郇・瑕の地に遷都がよいと述べています。
晋の景公が韓厥に相談すると「新田」が良いと告げました。
韓厥の意見に従い晋の景公は新田に遷都し、新絳とも呼ばれる様になります。
晋は紀元前585年に新絳に遷都しました。
魯の季文子は晋の新絳への遷都を祝賀する為に、晋にやってきた話しもあります。
楚との戦い
紀元前585年に楚の子重が鄭に侵攻しており、晋の景公は欒書に軍を預け救援させました。
楚軍は晋軍の夜襲により撤退しますが、晋軍は蔡に侵攻しました。
楚の公子申と公子成が申と息の二軍を率いて救援し、桑隧で対峙する事になります。
晋では荀首、士燮、韓厥の言葉により撤退しました。
楚の共王の時代になっても、やはり晋と楚の覇権争いは続く事になります。
晋と呉の国交
巫臣が楚から晋に亡命していましたが、楚の子反や子重は巫臣の一族を族滅させてしまいました。
これに怒ったのが巫臣であり、晋の景公に呉に行きたいと請う事になります。
晋の景公が許した事で、巫臣は呉に行き、晋と呉は国交を通じました。
ここで、晋と呉は共に楚を討つ約束をしています。
晋楚戦争は続く
紀元前583年に晋の景公は魯に韓穿を派遣し、汶陽の地を斉に返還する様に要請しました。
さらに、沈に侵攻するなど戦果を挙げました。
翌年に鄭が楚と会合に応じ、鄭の成公が晋にやって来ると、これを捕らえました。
晋の景公は欒書に鄭を攻撃させています。
楚の共王は晋の好誼を通じていた陳に侵攻し、鄭を救援しました。
趙氏の滅亡と復興
話は前後しますが、紀元前583年に晋の景公は趙同、趙括を反乱の容疑で誅しました。
これにより、趙氏は一時的に滅亡しました。
しかし、韓厥の諫言もあり、晋の景公は趙氏を復興させる事にしました。
趙氏の遺児である趙武を、趙の後継者として再び領地を与えています。
この話は趙氏孤児の劇にもなっており、有名です。
晋の景公の最後
不思議な夢
史記では晋の景公は病気となり、この時に太子の晋の厲公が立ち、一カ月ほどで晋の景公が亡くなった事になっています。
しかし、春秋左氏伝には不思議な話が掲載されています。
晋の景公は夢で背の高い亡霊が長い髪を振り乱し、胸を叩いて踊りながら「儂の子孫を殺すとは不埒や奴だ。儂は上帝から仇を討つ許しを得た」と告げました。
亡霊は大門と寝門を破壊し、晋の景公は寝室に逃げますが、亡霊は追いかけるのを止めませんでした。
ここで、晋の景公は目を覚ます事になります。
晋の景公は桑田の巫を呼び寄せますが、夢の内容をそっくりと言い当てました。
巫は「今年の新麦を食べる事が出来ないでしょう」と告げる事になります。
晋の景公が医者を秦に求めると、秦の桓公は名医として名高い緩を派遣しました。
緩がまだ晋に到着せぬうちに、晋の景公は二人の童子が話し合う夢を見ます。
一人は「緩は名医だから、やられてしまう。何処に逃げよう」と述べると、もう一人は「肓の上、膏の下なら大丈夫だ」と告げました。
この後に、緩が到着しますが「これは不治の病です。肓の上、膏の下の病は灸も針も使えず、薬の効果がありません」と述べる事になります。
緩の話を聞いた晋の景公は「名医である」と緩を認め、褒美を与えて秦に帰らせました。
この話が「病膏肓に入る」の故事成語となっており「治療できない重い病」の事を指す様になりました。
新麦が食べれず
晋の景公は新麦の時期になり、麦を献上させ料理させました。
ここで、桑田の巫女を呼び寄せると「予言は当たらなかった」と処刑しています。
晋の景公の暴君としての一面が見られる話でもあります。
それでも、晋の景公としては新麦を食べれると確信していたのでしょう。
しかし、新麦を食べようとすると、急に腹痛に襲われ厠に行くと転落し亡くなったと言います。
晋の景公が亡くなった日に、景公を背負って天に登る夢を見た宦官がいました。
この宦官が実際に晋の景公を厠から担ぎ出しており、殉死させたと伝わっています。
晋の景公の葬儀が行われますが、魯の成公が葬儀に参列しました。
しかし、他の諸侯は誰も葬儀に参列しなかった話があります。
史記の晋世家の最後の部分で司馬遷は「晋の成公と景公の時代の政事は厳酷を極め~」とあり、晋の景公の政治姿勢と何かしらの関係があるのかも知れません。