
晋の頃公は春秋時代の晋の君主です。
晋の平公の時代から、晋の公室は弱体化が続いており、晋の頃公の時代には、宗族の祁氏と羊舌氏が滅亡するなど、弱体化が加速しました。
晋の頃公の時代に異民族の陸渾を滅ぼし、東周王朝の内乱に対しては兵を出し平定するなどの活躍もありました。
しかし、晋の公室の弱体化は止める事が出来ず、六卿を抑えるのが難しくなった時代とも言えます。
陸渾を滅ぼす
晋の頃公の即位元年である紀元前525年に、韓起が晋の文公と中行午が手を携え、陸渾を授ける不思議な夢を見ました。
陸渾は晋の南に隣接している異民族の国です。
この話は春秋左氏伝に書かれており、これが原因なのか晋の頃公は陸渾への出陣を決めました。
手始めに、晋の頃公は屠蒯を周に派遣し「洛水と三塗の間で祭祀を行いたい」と告げる事になります。
東周王朝の萇弘は劉子に「晋の頃公が戎を討とうとしているから防備を固める様に」と進言しました。
晋の頃公は中行呉を出陣させ、中行午は黄河を渡り陸渾を滅ぼしています。
陸渾子は親交のあった楚に逃亡しました。
東周王朝の乱を平定
史記の晋世家によると晋の頃公の6年(紀元前520年)に周の景王が崩御し、王子らが位を争ったとあります。
晋世家の記述は簡略ですが、晋の六卿が王室の乱を平らげ、周の敬王を立てたとあります。
簡単に解説を入れると、周の景王が崩御した時に、周の悼王が即位しますが、王子朝が不満を持ち、最終的に周の敬王が即位した事件となります。
ここで注目したいのが、晋が王朝の混乱を平らげる為に、兵を出しているという事です。
紀元前546年に晋と楚及び周辺国の間で、弭兵の会が結ばれ戦争を止めました。
講和が成立してからの晋は肥や陸渾の様な戎の国は討ちましたが、中原の諸国に兵を出す事はありませんでした。
晋の頃公の時代に、晋は久しぶりに戎以外の地に兵を出したと言えるでしょう。
晋の頃公は動かず
史記の晋世家に晋の頃公の11年(紀元前515年)に、衛と宋が晋に使者を派遣し、魯の昭公を魯に入れる様に要請してきました。
当時の魯では三桓の季平子が主君の昭公を追い出し、魯の昭公は乾侯にいたわけです。
この時に、季平子が晋の士匄に賄賂を渡した事で、士匄は晋の頃公に「季氏に罪はありません」と進言した事で、晋の頃公は魯の昭公を魯に入れようとはしませんでした。
覇者の時代の全盛期であれば、臣下が主君を放遂すれば、覇者が動いたはずですが、この頃には時代が変わっている様子が伺えます。
それと同時に、臣下が強大となり主君を凌ぐ事になるのは、晋だけではなく魯でも起きていたと言えそうです。
晋の公室の弱体化と六卿が強大になる
晋の頃公の12年(紀元前514年)に、晋の宗族でもある祁盈と楊食我が誅されました。
楊食我は晋の名臣でもある叔向の子です。
史記によると、祁盈と楊食我は主君である晋の頃公と折り合いが悪く、これを利用した六卿が法を使って祁盈と楊食我の一族を族滅させたとあります。
これが祁氏と羊舌氏の滅亡です。
祁盈と楊食我の領地は十県に分割し、六卿の子らを新県の大夫にしたとあります。
史記の晋世家では、晋の頃公の時代に起きた公室が弱体化した事件として紹介されました。
春秋左氏伝によると、この時は韓起が亡くなり、魏舒が正卿になっていたと言います。
それでも、評判を気にしたのか、魏舒は魏戊に梗陽県を与えますが、身内びいきだと言われないか、成鱄に相談した話があります。
尚、この話だと晋の六卿が強欲であり、晋の頃公が気の毒に思うかも知れませんが、孔子は魏舒の人事に対し「義に合している」とも述べており、評価した部分があり、全てが悪だとは言い切れないのでしょう。
晋の頃公の最後
史記によると、晋の頃公はその14年に没したとあります。
晋の頃公は紀元前512年に亡くなった事になるのでしょう。
晋の頃公が亡くなると、晋の定公が立ちました。
春秋左氏伝では晋の頃公の葬儀の時に、鄭から游吉が葬儀に参加したとあります。
この時に、魏舒が士弥牟に命じ「晋の悼公の葬儀には鄭から公孫夏と公孫蠆が参加したのに、一人で来たのはなぜだ」と游吉に問い詰めました。
士弥牟は先例に従わない事を咎めたわけですが、游吉は「先例と言っても手厚い場合もあれば、簡略な場合もある。主君の鄭の献公は幼少で参加出来ない」と説明し、見事な受けごたえをした話があります。
晋の頃公の最後の話は葬儀の時の逸話くらいであり、亡くなった時のエピソードなどは特にありません。
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