
晋の霊公は春秋時代の晋の君主です。
母親の穆嬴の強い要望もあり、晋に君主として即位しました。
晋の霊公の時代に、楚の北上が再開され、陳や衛などが楚に靡き晋の覇者体制が揺らぎました。
魯や斉も晋を盟主とする諸侯同盟から離脱しました。
趙盾が正卿となっていますが、晋の霊公が奢侈に耽り、暴君としての一面も見せています。
晋の霊公は最終的に臣下の趙穿により、最後を迎えました。
晋の霊公の即位と確執
晋の襄公が亡くなった時に、太子の夷皋は幼少であり、当時の晋は秦と敵対しており、覇者として諸侯同盟を纏めねばならぬ状態でした。
晋の大臣達は、国を安定させるには幼少の夷皋ではなく、年長の者が最適だと考えたわけです。
趙盾は公子雍を推し、賈季は公子楽を推薦しました。
当時の公子雍は秦におり士会と先蔑が迎えに行き、公子楽も賈季が迎えに行きますが、趙盾により暗殺されています。
秦の康公も公子雍に多くの兵を出して、晋に向かわせる事を決定しました。
ここで、穆嬴が夷皋を抱き朝廷で号泣し「晋の襄公の太子を廃すべきではない」と訴えかけたわけです。
大臣達は穆嬴の行動に困惑し、変事が起きる事を心配した事もあり、夷皋の擁立を固めました。
夷皋が晋の霊公となります。
趙盾らは秦軍に守られた公子雍の軍勢を急襲し大破し、士会と先蔑は秦に逃亡しました。
晋の霊公は晋の君主として即位する事は出来ましたが、六卿の筆頭でもある趙盾は最初は公子雍を立てようとしていたわけであり、晋の霊公との間に遺恨が出来たはずです。
扈の会盟
紀元前620年に晋は扈の会盟を主催しました。
晋の霊公は会盟を仕切れる様な年齢ではなく、正卿の趙盾が参加し斉の昭公、宋の昭公、衛の成公、陳の共公、鄭の穆公、許の昭公、曹の共公らが集まる事になります。
扈の会盟は中原諸侯の大半が集まっており、大成功に終わったと言えるでしょう。
扈の会盟は晋の霊公の時代に行っていますが、霊公は幼く先代の晋の襄公や趙盾の功績が大きかったと言えます。
翌年に晋の霊公は解揚を使者とし、匡や戚を衛に返還し、公婿池が所有していた申から虎牢に至る地を鄭に返還しました。
早い様に思うかも知れませんが、この頃が晋の霊公の全盛期だったと言えるでしょう。
楚の北上
春秋左氏伝によると紀元前618年に、范山が楚の穆公に進言した事により、楚が再び中原に侵攻しました。
晋の霊公が幼少であり、諸侯を纏めるのが難しいと考えての、侵攻です。
楚の穆王は狼淵に出陣し鄭を攻撃し、講和しました。
この時に、晋では趙盾、魯の公子遂、宋の華耦、衛の孔達、許の大夫らが鄭の救援に動きますが、間に合わなかった話があります。
さらに、楚は陳に侵攻し、壺丘を攻略し、最終的に楚は陳と講和する事になります。
これにより、鄭や陳は晋からの同盟から離脱しました。
紀元前616年に承匡で晋の郤缺が叔彭生と会合を行い、楚に従った陳、鄭、宋の対応を巡って協議しています。
蔡も紀元前612年の扈の会盟以降は参加しておらず、蔡も晋の同盟から離脱し晋覇は低調となりました。
尚、この時に晋の郤缺は蔡が晋の霊公を侮っているとし、蔡を攻撃し盟約を結んでいます。
晋の霊公の時代の晋秦戦争
晋の康公も晋を攻撃し、北徴を占拠しています。
晋の襄公の時代に始まった晋秦戦争ですが、秦の霊公の時代になっても継続しました。
紀元前615年に秦の康公は西乞術を魯に派遣し、晋を攻める提案をしましたが、魯の襄仲(公子遂)は辞退しました。
それでも、同年に秦の康公は晋に侵攻すると、晋の霊公はまだ政務を行える年齢ではなく、趙盾が中心となり荀林父、郤缺、臾駢、欒盾、胥甲らが河曲で秦軍との戦いが勃発しています。
河曲の戦いは趙穿の活躍もあり、晋軍が勝利しました。
晋秦戦争ですが、紀元前614年に晋の霊公が詹嘉を瑕に駐屯させ桃林塞を築きました。
これにより晋秦戦争は一応は終わりを見せています。
尚、紀元前613年に晋は秦にいた士会を趙盾、荀林父、郤缺らは魏寿余を使い呼び戻しました。
斉と魯の離脱
紀元前612年に斉が魯への軍事行動を開始しました。
斉は晋の霊公を頂点とする諸侯同盟からの離脱を現現した事にもなります。
魯の救援もあり、晋の霊公は兵を出し扈で盟約を結びますが、賄賂により斉への攻撃を中止してしまいました。
魯は晋を信用しなくなり、斉の懿公と郪丘で会盟を行っています。
晋の諸侯同盟が解体に向かっているのが分かるはずです。
楚では紀元前614年に楚の荘王が即位しており、強大となって行きますが、晋の霊公が奢侈であり、晋は楚に対抗出来なかったとあります。
晋の霊公は暴君だったのか
史記や春秋左氏伝に壮年になってからの、晋の霊公の逸話が掲載されています。
晋の霊公は租税を重くし贅沢を好んだとあります。
高台の上から弾き弓を使い人々が、慌てふためく様を見て眺めるのを好んだと言います。
晋の霊公の料理人が熊掌を煮ましたが、よく煮えてないと怒り料理人を殺しました。
さらに、料理人の屍を婦人たちに運ばせ捨てさせたとあります。
趙盾や士会は晋の霊公を諫めますが、聞き入れられる事はありませんでした。
これが真実なのかは分かりませんが、晋の霊公の暴君としての逸話が残っているわけです。
晋の霊公と趙盾の出奔
晋の霊公は諫言を嫌い力士の鉏麑を使い趙盾を殺害しようとしました。
しかし、鉏麑は趙盾を殺すのに忍びなく、自害する事になります。
晋の霊公は趙盾を討つのを諦めておらず、酒を飲ませ討とうとしますが、示眯明が阻止しました。
晋の霊公は猛犬を放ち趙盾を殺害しようとしますが、これも示眯明が阻止しています。
晋の霊公の最後
晋の霊公は趙盾の命を狙い、遂に趙盾は出奔しました。
しかし、趙穿は納得しておらず、晋の霊公を襲撃し討ち取っています。
これにより晋の霊公は最後を迎えました。
紀元前607年に、晋の霊公は亡くなりました。
趙盾がまだ国境から出ない内に、晋の霊公は討たれており、趙盾が出奔し直ぐに趙穿に討ち取られてしまったのでしょう。
尚、太子の董狐は「趙盾その君を誅す」と書き示しました。
晋の霊公は世を去りますが、趙盾と趙穿は周にいた黒臀を迎え入れ晋の君主として擁立しました。
黒臀が晋の成公です。
| 先代:襄公 | 霊公 | 次代:成公 |