
秦の成公は春秋時代の秦の君主です。
兄の秦の宣公には9人もの子がいましたが、宣公の後継者になったのが成公でした。
秦の成公は兄弟相続により、秦の君主になったわけです。
成公の時代に梁や芮の君主が来朝した記録があります。
秦の成公は即位後僅か4年で亡くなってしまいますが、ここでも兄弟相続を行い弟の穆公が立ちました。
尚、秦の成公の後継者となった穆公は、春秋五覇にも数えられる名君として名が通っています。
因みに、兄の宣公には7人の子がいた事が分かっており、秦の成公にも7人の子がおり、弟の穆公に至っては40人もの子がいた事が分かっています。
それらを考慮すると、兄弟3人子宝に恵まれたと言えるでしょう。
秦の成公が即位
兄の秦の宣公が亡くなると、弟の秦の成公が秦の君主として立ちました。
秦の宣公には子が9人もいたわけですが、自らの子は秦の君主とならず弟の秦の成公が秦の君主となったわけです。
秦の成公の父親である徳公や叔父の武公などは、権臣である三父らの意向で、秦の君主が決まるなど苦しめられており、秦では幼少の君主が立つ事を望まなかったのではないでしょうか。
こうした事情もあり、成人で政治を行える年齢のものが秦の君主として相応しいと考えられ、秦の成公が秦公になったとみる事が出来ます。
この頃の秦では兄弟相続が普通に行われていました。
梁伯と芮伯の来朝
秦の成公の元年(紀元前663年)に、梁伯と芮伯が来朝したと史記にあります。
梁伯と芮伯は秦の成公が君主になった事で、挨拶に来たのかも知れません。
尚、秦の成公の父親である徳公の時代にも、梁と芮が来朝した記録があり、梁と芮は秦の従属国になっていたのでしょう。
梁と芮は秦と隣接国であり、秦に睨まれれば滅亡は必定であり、頭を下げる意外に道はなかったと考える事も出来ます。
ただし、梁に関しては大国の晋との間にある国であり、緩衝地帯にもなっていました。
尚、史記の秦本紀には秦の成公の時代の出来事として、斉の桓公が山戎を討ち、狐竹の君を斬ったとする記録があります。
斉の桓公が燕の荘公の要請により、北方遠征を行った事を司馬遷は、秦の成公の時代の出来事として書き示しました。
秦の成公の最後
史記の秦本紀によると、秦の成公はその4年に没したとあります。
紀元前660年に秦の成公は亡くなった事になるのでしょう。
秦の成公には、7人もの子がいましたが、後継者になったのは弟の秦の穆公でした。
子が後継者にならなかったのは、年少での即位は大臣が権力を持ち、国政が揺らぐと考えたからではないでしょうか。
秦の成公には7人の子がいても、全て幼少だったのかも知れません。
秦では成人した君主の長期政権が望まれたと思われますが、穆公が成し遂げる事になります。
尚、秦の成公の7人の子が、その後にどうなったのかは不明です。
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