春秋戦国時代

秦の出公は幼少で即位し母后が実権を握った

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宮下悠史

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名前秦の出公
生没年紀元前388or389ー紀元前385年
在位紀元前386年ー紀元前385年
一族父:恵公
コメント幼少で即位し母后が実権を握った

秦の出公は春秋戦国時代の君主です。

父親の秦の恵公が亡くなると、秦の君主になりました。

史記の秦本紀では恵公の12年(388年)に生まれた事になっていますが、六国年表では恵公の11年(紀元前389年)に生まれた事になっています。

ここでは六国年表の記述を元に話を進めていきます。

秦の出公は幼少での即位であり、母后が実権を握りました。

しかし、大臣達の反発も大きく在位2年で出公は母親と共に殺害されています。

秦の出公は物心がつく前に亡くなった事も考えられるはずです。

秦の出公の即位

秦の出公は史記の六国年表によると、秦の恵公の11年に生まれたとあります。

これが真実であれば、紀元前389年に生まれた事になるのでしょう。

父親の秦の恵公が亡くなると、即位しますが、即位元年が紀元前387年であり、僅か3歳で即位した事になります。

3歳の子供に政務を執れるはずもなく、母親が政務を行いました。

秦の出公の時代の政治

秦の出公は幼少であり、政務を行うことが出来ず母后が輔政しました。

秦の出公の時代のヒントになる記述が、呂氏春秋にあります。

呂氏春秋によると、母后は宦官を用いたとあります。

母后が政治を行う事が出来たのは、簡公の時代に官僚機構を立ち上げており、その影響力が強かったと考えられています。

既に簡公の時代に官僚機構の政治が出来ており、国君専制が可能となり、秦の出公の摂政という形で母后が政治を行ったのでしょう。

簡公からでは敬公恵公、出公と父子相続が可能だったのは、官僚組織に支えられた部分が大きかったとも考えられています。

秦の出公の最後

秦の出公は紀元前385年に、母后と共に殺害されました。

庶長らにより、殺害されたと史記には書かれています。

秦の出公の在位期間は、僅か2年しかありません。

母后が宦官を重用するのを快く思ってはおらず、庶長らが反発したのかも知れません。

他にも、秦の出公は幼少であり、指導力に欠けていた事は明らかであり、年長の者をの大臣らが望んだ可能性もあるはずです。

秦の出公を殺害するにあたり、庶長らは秦の霊公の子である公子連を擁立しました。

公子連が秦の献公です。

史記では君臣の間が離反し、がまた強くなり河西を奪ったとあります。

史記の記述だと晋になっていますが、実際にはが河西を制圧したという事なのでしょう。

公子連も河西にいたのであり、秦の献公は魏に亡命していたのではないか?とする説もあります。

先代:恵公出公次代:献公

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