春秋戦国時代

晋の襄公は覇権を維持する事に成功した

2026年1月7日

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宮下悠史

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名前晋の襄公
姓・諱姫驩
生没年生年不明ー紀元前621年
在位紀元前628年ー紀元前621年
時代春秋戦国時代
一族父:文公 母:偪姞 配偶者:穆嬴 子:霊公
伯鯈 (晋)、叔劉、公子雍、公子楽、成公
コメント春秋五覇の一人に数えられる事もある

晋の襄公は春秋時代のの君主です。

との戦いにおいて、喪服を黒くして出陣した話は有名ではないでしょうか。

晋の襄公の時代から秦とは連年の様に報復戦争が行われる様になり、同盟国内で衛や魯の態度を咎めるなど、晋の覇権が揺らいだ時代でもあります。

しかし、晋の襄公は晋の覇権を守り切りました。

晋の襄公は紀元前621年に亡くなってしまいましたが、翌年の扈の会盟では中原の多くの諸侯が集まりました。

扈の会盟を見れば、晋の襄公の治世は決して間違ってはいなかったと言えるはずです。

尚、全祖望では文襄の覇を評価したのか、晋の襄公を春秋五覇の一人として数えています。

晋秦戦争の始まり

晋の襄公は晋の君主となりますが、父親の文公が亡くなる時に「秦の軍が領内を通過するから攻撃すれば必ず大勝する」と予言めいた亡くなり方をしました。

秦の方では穆公が蹇叔の意見を聞かず、孟明視、西乞術、白乙兵らに兵を預け鄭を攻撃させました。

この時に、秦の三将は鄭を落せぬと判断し、の辺境の地である滑を攻撃し攻め滅ぼしています。

これが晋の襄公の時代に行われた晋秦戦争の始まりでもあります。

殽の戦い

晋の襄公の方では、軍議が開かれました。

先軫は「秦を攻撃すべし」としましたが、欒枝は「秦から受けた恩を忘れてはいけない」とし、戦うべきではないとしました。

先軫が強く主張した事もあり、晋の襄公は開戦に踏み切る事になります。

ここにおいて、への報復戦争が始まりました。

先軫らは軍を率いて、秦軍を攻撃し殽山で秦軍をやぶり孟明視、西乞術、白乙兵を捕虜としました。

大戦果を挙げたと言ってもよいでしょう。

この戦いは殽の戦いと呼ばれたりもしています。

黒の喪服と決意表明

晋の襄公は殽の戦いに臨むにあたり、晋の襄公は父親の文公が亡くなったばかりであり、喪中の状態でした。

喪中の襄公は喪服を嫌い、これを黒染めにしたとあります。

現在では喪服と言えば「黒」が主流ですが、当時は違っていたのでしょう。

尚、晋の襄公が喪服を黒くした理由ですが、ちくま学芸文庫の史記世家によると「敗軍には喪服を着るゆえ」と書いてあり、喪服を黒にしたのはゲン担ぎの意味があったのでしょう。

それと同時に、晋の襄公の必勝をきたす、決意表明が喪服を黒にしたとも感じました。

晋の襄公の甘さ

の軍は殽の戦いで大勝し、の孟明視、西乞術、白乙兵ら三将を捕虜としました。

晋の襄公は三将の処遇を決めていませんでしたが、晋の文公の正夫人だった文嬴が「父である秦の穆公の元に返し処罰させる様に」と告げました。

文嬴の言葉により、晋の襄公は秦の孟明視、西乞術、白乙兵の釈放を決め、直ぐに行動に移す事になります。

三将釈放の話を聞いて激怒したのが、先軫であり「仇敵を太らせる行為は国を滅ぼす」と面を向かって唾を吐きました。

先軫としては、孟明視らの有能さを分かっており、秦に帰すのは危険すぎると判断したのでしょう。

晋の襄公は陽処父に晋の三将を追わせますが、間に合いませんでした。

先軫の死

晋の襄公は先軫に唾を吐かれたわけですが、襄公は不問としました。

父親である重耳の亡命に付き従い、絶大なる功績がある先軫を罰する事は出来なかったのでしょう。

ただし、先軫の方は晋の襄公に唾を吐いた事を後悔しており、狄との箕の戦いで甲冑を脱ぎ、敵に突撃を仕掛け討死しました。

晋の襄公は先軫の子の先且居を中軍の将とし、先茅のものだった県を先且居に褒美として与えています。

さらに、晋の襄公は郤缺を卿としました。

晋覇の動揺

衛を攻撃

春秋左氏伝によると紀元前626年に、晋の襄公は小祥の祭を済ませると、衛への侵攻を諸侯に布告しました。

晋の文公の末年に諸侯がに朝見する時に、衛の成公は朝見せず、孔達を派遣して、鄭の緜、訾、匡に侵入しています。

晋の襄公としては、同盟国同士の争いを禁止する立場であり、衛を罰する為に攻撃対象としたのでしょう。

晋の軍は南陽まで行きますが、先且居が晋の襄公に「衛の過ちを自分が行ってはならない」と諭し、晋の襄公は温で周の襄王に朝見しました。

この後に、先且居と胥臣は衛を攻撃し、戚を陥落させ、孫昭子(孫炎)を捕虜としています。

衛の成公が陳の共公に相談すると、逆に孔達が晋を攻撃する事になり、陳の共公のとりなしにより講和が成立しました。

晋の襄公は衛の戚を取ると画定を行い、魯は公孫敖を派遣した記録があります。

紀元前626年の晋の襄公は、衛とのいざこざがあり、晋覇の揺らぎとも見られています。

彭衙の戦い

紀元前625年に秦の孟明視が軍を率いて、殽の戦いの報復を行いました。

晋の襄公は迎撃する事になります。

軍は先且居を中軍の将とし、趙衰を佐としました。

晋の襄公は御者を王官無知とし、狐鞠居が車右を務めています。

との間で、彭衙の戦いが勃発しますが、晋軍が勝利しました。

孟明視は過去に敗れた晋軍との雪辱に燃えていたはずですが、晋の襄公が退けています。

春秋左氏伝によると彭衙の戦いの後に、晋の人は秦の事を「晋君の御恵みに拝謝した軍」だと嗤ったとあります。

彭衙の戦いでは、晋の襄公の采配が優れていたと言うべきでしょう。

しかし、孟明視は晋軍打倒を諦めたわけではありませんでした。

尚、春秋左氏伝の紀元前625年の項目に、晋の先且居・宋の公子成・陳の轅選・鄭の公子帰生が秦に攻撃し、汪と彭衙を取ったとあります。

この戦いは彭衙の戦いの報復だとされています。

晋と秦は連年に様に争う様になりました。

魯への朝見の強制

春秋左氏伝の625年の記述に、魯の文公が朝見しない事をの人が咎めに来たとあります。

これは、諸侯同盟の盟主である晋の襄公に朝見しようとしない魯の文公に、同盟内の秩序を守らせようとしたのでしょう。

魯の文公は乗り気ではなかったかと思いますが、晋に赴きました。

晋の襄公は陽処父を派遣して、文公と盟約を交わさせ、辱めたとあります。

魯の文公としては、盟約を結ぶ相手が晋の襄公ではなかった事に、屈辱を覚えた可能性もあるはずです。

ただし、晋の襄公も悪いと思ったのか、紀元前624年に盟を改めて行いました。

晋の襄公の衛への出兵や魯の文公の朝見の強制。との軍事衝突は、秦覇の動揺とも考えられています。

尚、東方の大国である斉は紀元前631年の翟泉の盟以降は、会盟や出師に対して全て不参加となっています。

晋秦戦争は続く

紀元前624年に秦の穆公を攻撃し、王官と郊を占拠しました。

王官の戦いなどは晋にはいい所がなく、孟明視の活躍もあり敗れ去る事になります。

しかし、紀元前623年に晋の襄公はを攻撃しました。

晋軍は邧と新城を包囲したとあります。

ただし、陥落させたとは書かれておらず、結果は不明です。

六卿の人事

紀元前622年にの六卿の趙衰、欒枝、先且居、胥臣が亡くなりました。

六卿のうちの4名が1年の内に亡くなってしまい、晋にとっては痛手だったはずです。

紀元前621年に晋は最終的に趙盾を中軍の将とし、中軍の佐を狐射姑としました。

先克、箕鄭、荀林父、胥嬰らも六卿に名を連ねたと考えられています。

正卿・中軍の将となった趙盾が政務を執る事になります。

晋の襄公の最後

紀元前621年に晋の襄公は世を去りました。

既に体調を崩していた可能性もあり、六卿の人事に何処まで参画したのかは不明です。

この時に、晋の襄公の太子である夷皋はまだ幼く、趙盾らはの君主として不十分だと考え、後継者候補として公子雍や公子楽の名前が挙がりました。

公子雍を士会がに迎えに行くなどもありましたが、襄公の夫人である穆嬴の意向により、結局は夷皋が立つ事になります。

夷皋が晋の霊公です。

尚、晋の襄公の死が魯に通達されると、魯では襄仲(公子遂)を晋に派遣し、襄公の葬儀に参列しました。

晋の襄公の時代の晋は衛や魯との対応で覇者としての立場が揺らぎ、秦とも連年に渡り戦争が起きるなど国内が不安定になった様に見えます。

しかし、晋の襄公が亡くなった翌年の扈の会盟では、中原諸侯のほぼ全てが参加しており、襄公の功績は大きいのではないでしょうか。

名君と呼ばれた晋の文公の後継者となり、文襄の覇を成し遂げたと言えそうです。

全祖望では晋の襄公が春秋五覇の一人として名が挙がっていますが、最もな事でしょう。

先代:文公襄公次代:霊公

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