岑述は正史三国志に名前がある人物です。
しかし、正史三国志では1回しか名前が登場しない事もあり、かなりマイナーな人物だとも言えます。
三国志演義には岑述の名前が登場しません。
岑述は楊洪伝に名前があり、張裔と不仲になった話があります。
さらに、李厳に罪を押し付けられそうになった話もあり、人間関係に苦しんだ人物にも見えます。
今回は正史三国志に登場する岑述の解説をします。
張裔と不和になる
諸葛亮は第一次北伐の時に、漢中に入りますが、張裔を留府長史に任命し後の事を任せています。
この時に、岑述は司塩校尉になっていましたが、次の記述が存在します。
※正史三国志 楊洪伝の記述
張裔は司塩校尉の岑述と仲違いし仇敵の間柄となった。
どの様な事で張裔と岑述の関係が悪くなってしまったのかは不明ですが、上記の記述からは修復しようがない程の関係になってしまった事が分かるはずです。
諸葛亮は北伐の為に漢中にいましたが、張裔に手紙を送り宥めています。
尚、諸葛亮の手紙の中で「元倹に期待しただけ」とする記述があり、岑述の字が元倹だったのではないか?とも考えられています。
ただし、廖化の字も元倹であり「諸葛亮が廖化に期待した」とする説もあります。
しかし、文脈から考えると岑述の方が、すんなりと解釈出来る様に感じました。
諸葛亮が漢中に向かう前に、楊洪が「張裔は能力があるが公平性に欠ける」と述べ、責任者を張裔ではなく向朗に任命する様に述べた話があります。
それを考えると、張裔が公平性に欠ける行動をした事で、岑述と不和になったとも考えられます。
正史三国志だと諸葛亮の手紙の後に「楊洪が私心の為に向朗を推挙したわけではないと悟った」とあり、非は張裔にあった様に感じました。
張裔が公平な行いをしなかった事で、岑述が指摘し険悪な仲になってしまった様にも思います。
この後に、岑述が登場するのは諸葛亮の第四次北伐の時です。
李厳に罪を押し付けられる
第四次北伐では司馬懿と諸葛亮が対峙しますが、兵站を維持する事が出来ず、蜀軍は撤退しました。
華陽国志によれば、この時に岑述は李厳の配下として漢中にいた事が記録されています。
岑述は張裔と仲違いしており、諸葛亮は岑述と張裔を同じ場所に配置するのはまずいと考え、岑述を漢中に移動させたのでしょう。
しかし、ここでも岑述は人間関係に苦しむ事になります。
李厳は諸葛亮の本隊に兵站を繋げる事が出来なかった責任逃れをする為に、劉禅に嘘の上奏をしたり、岑述に責任を取らせ処刑しようとしました。
ここでも岑述は災難にあってしまったと言えるでしょう。
しかし、諸葛亮は李厳の上奏を調べ上げ、李厳が嘘をでっち上げた事が判明し、李厳は庶民に落されています。
それを考えると、岑述は命拾いをしただけではなく、名誉も回復したと言えるでしょう。
岑述ですが、張裔や李厳との関係を見るに、上司に嫌われてしまう何かがあったのかも知れません。
岑述は記録が少なすぎてしまい分からない事が多いです。