曹徳は曹嵩の子で、曹操の弟にあたる人物です。
一般的には曹操の一番下の弟で、曹嵩の五男だと考えられる事が多いと言えます。
曹徳の名前は正史三国志にはなく、曹徳の名前が登場するのは、裴松之の注釈・魏書武帝紀の「世語」からの記述となります。
曹操は劉岱が青州黄巾賊に敗れ去った後に兗州牧となり、兗州を拠点にすると琅邪にいた曹嵩と曹徳ら、家族を呼び寄せようとします。
しかし、陶謙が派遣した張闓により、父親の曹嵩と共に曹徳は殺害されてしまいました。
曹徳は年が若すぎたのか、功績などは一切伝わっておらず、曹嵩と共に殺害された記録だけが残っている状態です。
謎多き曹操の弟
正史三国志を見ると魏書の最初に曹操の事が書かれており、正史三国志の主役とも言える人物です。
しかし、曹徳を始めとして、曹操の兄弟に関しては謎が多いと言えます。
一般的には、曹操の兄弟は次の様に考えられています。
・長男:曹操
・次男:曹彬 (蘇恭公)
・三男:不明(曹安民の父とも考えられる・海陽哀侯)
・四男:曹玉 (朗陵哀公)
・五男:曹徳
上記の五名の中では、三国志がある程度詳しい方であっても、知っているのは曹操だけではないでしょうか。
日本で兄弟と言えば足利尊氏と足利直義、羽柴秀吉と羽柴秀長を思い浮かべる人もいるはずです。
しかし、曹操に至っては兄弟の活躍も、全くと言ってよい程に確認が取れない状態となります。
曹操は実力主義の人物でもあり、弟達は役に立たないと判断したのかも知れません。
今回紹介する曹徳に関しても、曹操との逸話もなく、世語に最後だけが記載されています。
尚、後漢書の宦者伝に曹嵩と曹疾が琅邪に避難していた話があり、曹徳と曹疾が同一人物ではないか?と考える人もいます。
さらに、正史三国志には曹操の弟に海陽哀侯がいたとする話があり、海陽哀侯と曹徳が同一人物ではないか?とする説もある状態です。
ただし、海陽哀侯も夏侯淵伝で名前だけが登場する存在であり、娘が夏侯衡の妻になった事位しか分かっていません。
曹徳だけではなく、曹操の兄弟全員が謎だらけと言った印象です。
曹徳の最後
曹操は兗州の地で地盤を固め名士の荀彧を始め程昱、夏侯惇、曹仁、典韋など文武に人材を集める事に成功しました。
こうした状況の中で、曹操は自分の本拠地である兗州に、父親の曹嵩や弟の曹徳を呼び寄せたわけです。
曹操は泰山太守の応劭を派遣し、曹嵩と曹徳を迎えに行かせました。
この話を聞いた陶謙は数千の兵を派遣し、曹嵩を逮捕しようとします。
呉書の記述を考慮すると、陶謙が派遣したのは張闓と言う事になるのでしょう。
ここでは張闓で話を進めます。
張闓が曹嵩の家にやってきますが、曹嵩の方では応劭がやって来たと考え、無防備に迎え入れてしまいます。
この時の記述が世語にあり、次の様に記載されていました。
※世語の記述
陶謙の兵がやって来ると、太祖の弟の曹徳を門の中で殺害した
この記述から察するに、陶謙の兵がやってきた時に、曹徳は曹操の迎えである応劭だと考え、出迎えてしまったのでしょう。
陶謙の兵は無防備に出て来た曹徳をいきなり殺害したと考えられます。
三國志演義でも似た様な感じで、曹徳は殺害された事になっています。
正史三国志には曹徳に対する記述は、これだけしかなく曹徳が有能だったのかも分からない状態です。
尚、呉書の記述では曹徳は登場しませんが、張闓は欲に目が眩み独断で曹嵩を殺害し、淮南に逃げた事になっています。
どちらにしろ、曹操の一族である曹嵩と曹徳は亡くなってしまい、曹操が陶謙を攻撃した徐州大虐殺に繋がっていくわけです。