古代ギリシア

スパルタの歴史!過酷な軍事国家はなぜ滅亡したのか!?

2021年6月14日

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宮下悠史

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スパルタの歴史を解説します。

スパルタはギリシアにあった有力ポリス(都市)の一つです。

スパルタは、非常に厳しい軍事教育(訓練?)を施した国でもあり、今でも「スパルタ教育」という名前が今でも残っています。

スパルタ教育の事を学問を覚えさせる為に熱心だったと勘違いしている人もいる様でが、実際には過酷な軍事訓練と非人道的な事まで推奨された教育が特徴です。

スパルタの徹底した軍事教育を考えただしのは、リュクルゴスだと言われています。

その為、スパルタの徹底した軍事教育は、リュクルゴス制とも呼ばれました。

尚、スパルタ王であったレオニダス王(レオニダス1世)率いる300人の軍勢が、ペルシア軍20万に挑んだテルモピレーの戦いは有名です。

テルモピレーの戦いは、300(スリーハンドレッド)の名で映画にもなっています。

因みに、スパルタは身体能力だけなら歴史上最強との呼び声も高いです。

エーゲ文明とトロイア戦争

スパルタ(ポリス)が誕生するまでを解説します。

エーゲ文明

スパルタ(ポリス)が誕生する以前に、ギリシアではクレタ島を拠点とするミノア文明がありました。

文明と言えば、エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明などの大河の付近になる文明が有名ですが、地中海に浮かぶ島であるクレタ島にも文明があったわけです。

因みに、ミノア文明の事はクレタ島に由来しクレタ文明と呼ばれる事もあります。

しかし、紀元前1400年くらいになると、ギリシア本土からミケーネ人が攻めて来てミノア文明は滅ぼされています。

ミノア文明が滅亡した事で、ギリシア本土にあるミケーネが文化の中心地となったわけです。

ミノア文明とミケーア文明を合わせてエーゲ文明と呼びます。

因みに、エーゲ文明に関しては、19世紀まで全くも無名でした。

しかし、シュリーマンが遺跡を発掘していく中で、ミノア文明やミケーネ文明の事も注目される様になります。

トロイア戦争とスパルタ王

ギリシアを代表する吟遊詩人としてホメロスがいます。

ホメロスも謎に包まれた人物であり、正確な事は分かってはいません。

ただし、ホメロスはトロイア戦争の事を語っており、その遺跡をシュリーマンが見つける事になります。

ホメロスが語るトロイア戦争は、ゼウスの妻であるヘラやアテネ、アフロディーテなどの神々も登場し、伝説上の話だとされてきました。

トロイア戦争はシュリーマンが遺跡を発掘した事により実在した話ではないか?と認識される様になります。

トロイア戦争は、トロイアの王子であるパレスが、スパルタ王メネラオスの王妃であるヘレネを連れ去った事で始まります。

王妃を連れ去られたスパルタ王メネラオスは、兄であるミケーネ王アガメムノンに協力を要請しギリシア諸国の王を引き連れてトロイアを攻撃します。

トロイアは少数でしたが、守りが堅くメネラオスやアガメムノンは苦戦する事になります。

さらに、最強と謳われたアキレスとアガメムノンの仲違いなどもあったわけです。

しかし、ギリシア軍の参謀であるオデュッセウスの奇策・トロイアの木馬を実行します。

トロイアの木馬が成功すると、ギリシア軍はトロイアを一気に滅亡させたわけです。

余談ですが、スパルタ王メネラオスは、ヘレネを奪還し、最後はエリュシオン(死後の楽園)で暮らしたともされています。

ただし、トロイア戦争の話は、どこまでが本当かは確証が持てません。

まだまだ伝説に域を出ない部分はあるでしょう。

ただし、ミケーネの勢力がギリシアの中で最強の軍事国家だと言えそうです。

スパルタの建国

スパルタは紀元前12世紀ごろに建国されたとされています。

紀元前12世紀頃までは、スパルタ地方は、ミケーネ文明の勢力下にありました。

ミケーネ文明の勢力に北からドーリア人が攻めて来る事になります。

そして、ドーリア人がラコニア地方にいたギリシア人と戦い勝利を手にします。

戦いに勝ったドーリア人は、ラコニア地方に定住するようになり、これがスパルタの始まりだとされているわけです。

尚、ミケーネ文明の勢力にドーリア人が勝てた理由ですが、鉄器を用いた武器が決め手となったと考える人もいます。

世界で最初に鉄を用いたのは、アナトリア半島にいたヒッタイトの勢力だとされています。

ヒッタイト以前のメソポタミア地方には、高度な文明を持っていたとされているシュメール人バビロニアアッカド、海の民などの国が勃興しては衰えたりしていましたが、鉄は作れませんでした。

鉄を開発した事でヒッタイトは強大な軍事国家となります。

古代オリエント(エジプトとメソポタミアを合わせた地域)から鉄が伝わった事で、強大な勢力を有していたミケーネ文明の勢力をドーリア人が打ち破る事が出来たのではないか?と考える人もいます。

スパルタを建国したドーリア人は、何らかの方法でヒッタイトから鉄を導入したのではないか?と考えられているわけです。

鉄を用いた事がミケーネの勢力を倒した原動力になっていると考えられています。

紀元前6世紀にはスパルタはギリシア南部の有力ポリスとなり覇権を握る様になります。

リュクルゴスの改革

スパルタに過激な軍事教育を考案したのは、リュクルゴスだとされています。

リュクルゴスがスパルタ教育を考案した理由などを解説します。

メッセニアを制圧

先に、ドーリア人が南下して、ミケーネの勢力を駆逐しスパルタが出来た話をしました。

しかし、ドーリア人も幾つかの勢力があったようで、メッセニア地方を征服したドーリア人は、先住民との融和政策を取っています。

スパルタは先住民を奴隷にしたとあり、スパルタにとっては都合が悪く驚異を感じていました。

ここでメッセニアとスパルタの戦いとなります。

メッセニアとスパルタの開戦理由については、メッセニア人がスパルタ王を暗殺したとか、メッセニア側が何らかの事をスパルタにした説もあります。

ただし、メッセニアを攻撃したいスパルタ側がでっち上げたのではないか?とする説も有力です。

第一次メッセニア戦争で勝利したスパルタは、全てのメッセニア人を奴隷にしてしまったとも伝えられています。

スパルタのやり方に反抗したメッセニア人は反乱を起こし第二次メッセニア戦争が起きます。

最終的には第二次メッセニア戦争もスパルタが勝利しますが、メッセニア人を指揮する名将アリストメネスの采配により、かなり苦戦をしています。

スパルタでは、たびたびヘイロータイと呼ばれる奴隷たちの反乱に悩まされる事になります。

奴隷たちの反乱と、リュクルゴス制と呼ばれるスパルタの教育は大きく関わっています。

尚、メッセニア地方はスパルタの有力な奴隷供給地となっていたようです。

スパルタの身分制度

スパルタには大きく分けて、3つの身分制度があったとされています。

ヘイロータイ(ヘロット)と呼ばれる奴隷、ペリオイコイと呼ばれる中間層、スパルタ人の支配層の3つが存在しました。

ペリオイコイと呼ばれる中間層は、半自由民とも呼ばれていて、奴隷と市民の中間にあたります。

身分により職業も決まっていた様で、ヘイロータイは農業に従事し、ペリオイコイは商業をし、スパルタ市民は軍事を行います。

尚、スパルタ市民だけではなくペリオイコイも徴兵される事が多かったようで、戦場に行っていたようです。

因みに、スパルタ市民は全体の1割であり、大半がヘイロータイとペリオイコイで占められます。

リュクルゴス制が出来る

スパルタではヘイロータイの反乱に悩まされる事にあります。

全てのヘイロータイやペリオイコイが反乱を起こすと、スパルタ市民との戦力差は10倍以上となり、支配階層の転覆も十分に考えられたわけです。

この時に、リュクルゴスの考えた結果がスパルタ教育となります。

リュクルゴスはスパルタ市民を徹底的に鍛えて、敵の10倍の戦力であっても、跳ね返せるようになればよいと思いついたようです。

兵器の向上や戦略を鍛えるのではなく、体や精神を鍛えて最強の軍隊を育成すればよいと思いついたのでしょう。

リュクルゴスの考案したとされる方法が、スパルタ教育の語源となった非常に厳しい軍国主義だったわけです。

同じギリシア地方のアテネが詩人で海上貿易を営んでいたソロンが改革した事を考えると、リュクルゴスの改革はかなり対照的です。

尚、スパルタが軍事力と農業を重視した国家に対し、アテネは交易を重視し哲学も盛んでした。

同じギリシアの土地であるアテネでは言論が盛んでソフィスト(主に弁論を教える人)が流行したり、ソクラテス、プラトン、アリストテレスが名を残したのとは対照的です。

スパルタの歴史はリュクルゴス制と共にあるとも言えます。

リュクルゴスの聖杯はナノテクノロジーを使ったオーパーツだった

現在、大英博物館にはリュクルゴスの聖杯があります。

かつてリュクルゴスの聖杯は、世界を牛耳っていると言われたロスチャイルド家が所有していた時期もありますが、現代は大英博物館にあるという事です。

リュクルゴスの聖杯は、オーパーツとされ一部の間では非常に注目されています。

リュクルゴスの聖杯は、スパルタ教育を考案したとされるリュクルゴスが作ったわけではありません。

古代ローマの時代に、リュクルゴスの死をモチーフにして作られたのが、リュクルゴスの聖杯です。

リュクルゴスの聖杯は、紀元前300年ごろに作られたとされていますが、つい最近まで仕組みを理解する事が出来なかったオーパーツだったわけです。

リュクルゴスの聖杯は、光を当てる角度により赤や緑になったりします。

これはナノテクノロジーを使った技術であり、21世紀になるまで仕組みが分かりませんでした。

スパルタのポリスで作られたわけではありませんが、興味深いと感じています。

ペルシア戦争でポリス連合軍として戦う

ペルシア戦争を解説します。強大な力を持つアケメネス朝ペルシアがギリシアを征服しようとした戦いです。

因みに、上記の図を見ればアケメネス朝ペルシアの強大さが分かるはずです。

イオニアの反乱

ペルシアはギリシア地方から見ると東にある超大国でした。

さらに、この時にアケメネス朝ペルシアは諸王の王と呼ばれたダレイオス1世の時代でもあり全盛期となります。

イオニア地方のポリスなどを支配下に治めるなど勢力を拡大したわけです。

これに対して不満を持つイオニア地方のポリスは同盟を結びアケメネス朝ペルシアに反旗を翻します。

しかし、強大な力を持つペルシア軍に対して、イオニア地方のポリスだけで太刀打ちできるはずもありません。

この時に、アテネなどのポリスがイオニア連合軍を支援しています。

戦いの当初はポリス連合軍が何度もペルシア軍を破りますが、本腰を入れて攻撃してきたアケメネス朝ペルシアの軍により反乱の中心地であるミレトスが陥落します。

ミレトスを攻略された事でアケメネス朝ペルシアの勝利が決まりイオニアの反乱は集結します。

マラトンの戦いとアテネ・スパルタ同盟

イオニアの反乱を鎮圧したアケメネス朝ペルシアは、次のターゲットをアテネやエレトリアに定めます。

アケメネス朝ペルシアは、紀元前490年に大軍をエレトリアに向かわせると、すぐに制圧しました。

これに対して、アテネはアケメネス朝ペルシアを相手に徹底抗戦する事を決断します。

しかし、アケメネス朝ペルシアを恐れた多くのポリスはアテネに味方せず、プラタイアイだけが援軍を送っています。

尚、スパルタにもアケメネス朝ペルシアの使者が来ましたが有無を言わさずに、使者を井戸に放り込んでしまいました。

アテネの方はアケメネス朝ペルシアの使者を裁判に掛けた後に斬った話があるわけです。

しかし、アテネとプラタイアイを指揮するのは名将ミルティアディスであり、ここにマラトンの戦いが勃発します。

アテネはスパルタにも援軍を要請しますが、使者となった俊足フェイディピデスは、1日で220キロを走破するという、とんでもない記録が残っています。

ただし、スパルタはカルネイア祭をやっていて「次の満月までは援軍を送る事が出来ない」と援軍要請を断った話があります。

お祭りで援軍を断ったり、戦争をしないなどは当時のギリシア文化をよく現わしています。

この時のアテネとプラタイアイの連合軍は、非常に勇猛であり数で劣るにも関わらず、アケメネス朝ペルシアに大勝しています。

この時にアテネ軍の兵士が勝利の報(エヴァンゲリオン)を伝えにアテネまで走り絶命したのがマラソンの始りだとされてるわけです。

尚、スパルタ軍はアテネの勝利が決まった翌日に到着したとされています。

本当かどうかは分かりませんが、この時のスパルタ軍は3日で220キロを走破したともされています。

ギリシア側もアケメネス朝ぺルシアの脅威を感じたのか同盟を結んでいます。

マラトンの戦いに関しては、歴史家であるヘロドトスも記述しています。

テルモピュライの戦い

テルモピュライの戦いは、スパルタのレオニダス王が自ら軍隊を指揮しアケメネス朝ペルシアと戦っています。

尚、テルモピュライの戦いの時にギリシアの各ポリスではオリンピックを開催していて、ペルシア軍に対して少数の兵士しか送る事が出来ませんでした。

ギリシアのアテネと並ぶ有力ポリスであるスパルタでさえレオニダス王が自ら指揮する300の軍勢を送るのが精いっぱいだったわけです。

この戦いの兵数に関しては、様々な事が言われていてペルシア軍の兵数が210万という記録があります。

普通に考えて210万の兵力はありえないでしょう

ただし、大軍だった事は間違いなくギリシア連合軍の兵数5200に対し、ペルシア軍は20万はいたとされています。

アケメネス朝ペルシアはクセルクセス1世が指揮官であり、国王が自ら指揮を執っています。

これらの事からペルシア軍の楽勝かと思われました。

しかし、大軍が通れない隘路に布陣し屈強なファランクスを組むスパルタ軍に大いに苦戦する事になります。

ペルシア軍の槍は短く強靭な盾と長槍で攻撃するスパルタ兵に対処できなかったわけです。

ここでクセルクセス1世に幸運が訪れます。

地元のギリシア住民であるエフィアルデスがギリシア連合軍の背後に回り込める抜け道をペルシア軍に教えています。

ギリシア軍はこれにより、ペルシア軍に挟み撃ちにされる事になります。

背後を取られる事を察知した多くのギリシアポリスらは退却しましたが、レオニダス王率いるスパルタ兵300やテーバイの兵400、テスピアイの兵700は戦場に残る事になりました。

残った理由に関しては、様々な説がありますが、殿(しんがり)を務める為だとする説などが有力です。

圧倒的に兵数で劣るスパルタを始めるギリシア連合軍は劣勢となり、3日目の戦いでスパルタ軍を指揮するレオニダス王も矢に当たり戦死しています。

それでも丘(レオニダスの丘)に登りスパルタとテスピアイの兵は戦いを止めませんでした。

ペルシア兵はレオニダスの丘を包囲しているにも関わらず、白兵戦を嫌い弓矢で遠くから全滅させた話もあります。

テルモピュレイの戦いは、スパルタを始めとした連合軍は敗れ去りましたが、少数にも関わらずアケメネス朝ペルシアを大いに苦しめた戦いでもあったわけです。

尚、映画300(スリーハンドレッド)は、テルモピュレイの戦いを舞台にしています。

サラミスの海戦は名目だけはスパルタが指揮官だった!?

テルモピュレイの戦いは、レオニダス王が戦死するなどギリシアのポリス連合軍は敗れ去りました。

しかし、時間稼ぎにはなりましたし、オリンピックが終了した為に、ギリシアの各ポリスも本腰を入れてアケメネス朝ペルシアと戦う事になります。

ただし、この時はまだレオニダス王の戦死がギリシアの各都市には伝わっていなかった様です。

この時に、スパルタはコリントス地方での決戦を主張します。

屈強なスパルタ軍を有利に展開できる陸戦を望んだとされています。

ただし、コリントスはスパルタとアテネの中間に位置する都市であり、決戦場にすればコリントス以北のアテネなどの地はペルシアに蹂躙されてしまう事になるわけです。

これを危惧したアテネの指揮官であるテミストクレスは、海戦での決着を主張します。

テミストクレスは、ギリシアでは重要視されていたデルフォイの神託を上手く使い船の上での艦隊決戦を説き伏せる事に成功します。

スパルタ側には艦隊の指揮権を譲って納得させました。

しかし、アテネ軍はギリシア最強の海軍力を誇り、半数以上の艦隊がアテネ軍の直属でもあり、結局のところ指揮権はアテネ軍指揮官であるテミストクレスが握っていたようです。

ここでレオニダス王の戦死の方が届きます。

当初の予定では、ギリシア連合軍はアルテミシオンで勝利し制海権を握る予定だったようです。

しかし、テルモピュレイの戦いで敗れた事で、ギリシアの連合艦隊はサラミスまどの撤退を余儀なくされます。

このため、アルテミシオンから撤退したギリシア艦隊は追撃されて、アテネまでも陥落してしまう事態となりました。

ここでスパルタは最初に提案したコリントス地方での決戦を希望します。

しかし、アテネ軍指揮官であるテミストクレスは、サラミスで戦うのでなければ、アテネ軍は撤退すると脅したわけです。

ギリシア艦隊の生き残りの2/3は、アテネ艦隊でありスパルタもテミストクレスに渋々従う事になります。

ここにおいて紀元前480年サラミスの海戦が行われる事になります。

テミストクレスは偽りの情報でペルシア艦隊を分断しました。

さらに、ギリシア艦隊を偽って退却させて、隠してあった艦船で挟み撃ちにして勝負を決めています。

この戦いはギリシア連合艦隊の損害40隻に対して、ペルシア側は200隻を超える損害が出たとされています。

尚、制海権をギリシアに握られたアケメネス朝ペルシアの王であるクセルクセス1世は、本国であるアジアに帰れなくなる事を恐れて撤退しています。

ただし、軍勢は残していてペルシア戦争は、プラタイアの戦いと向かうわけです。

プラタイアの戦いで勝利するも、スパルタ軍が仲間割れしていた

アケメネス朝ペルシアのクセルクセス1世は、本国に帰国しましたが、指揮権はマルドニオス将軍に引き継がれました。

マルドニオス将軍が指揮するペルシア軍とスパルタやアテネを中心としたギリシア連合軍が戦う事になります。

ヘロドトスによればギリシア連合軍11万に対して、ペルシア側は30万の兵力がいたともされています。

しかし、実際にはギリシア軍8万、ペルシア軍12万ほどが正しいのではないか?と言われています。

プラタイアの戦いでは、ペルシア軍が山の麓にある川の反対側に布陣し、ギリシア連合軍はキタイロン山麓に布陣しました。

この時に、ペルシア軍の挑発もありギリシア軍は山の麓の近くまで降りて来てしまったわけです。

この時にペルシア軍の指揮官であるマルドニオス将軍は、ギリシア連合軍の水源を立つ作戦に出ます。

これによりギリシア連合軍は、給水が可能なプラタイアまで退く事になります。

多くのギリシアの各ポリスの兵が夜のうちにプラタイアに退いたのに対して、アテネ、スパルタ、テゲラ、メガラの軍は撤退しませんでした。

スパルタは「夜に撤退するのは逃亡と同じだ」と主張して朝方まで残ったようです。

この時にスパルタの指揮官であるアモムファルタスとスパルタの将軍パウサニアスは夜中まで怒鳴り合っていた記録も残っています。

パルサニウス将軍は夜中のうちに撤退したかったのですが、アモムファルタスの主張により出来なかったわけです。

アテネなどのポリスはスパルタの孤立を恐れて撤退しませんでした。

朝になるとアテネやスパルタ軍も撤退を始めます。

この時に、スパルタ軍はアモムファルタスの軍だけは撤退させずに殿(しんがり)として残しています。

スパルタのパルサニウス将軍がアモムファルタスに責任を取らせたのでしょう。

ペルシア軍は、ギリシア連合軍の足並みを揃っていないのを勘違いし、敵が逃げたと思いスパルタ軍に総攻撃を出します。

スパルタはアテネに救援要請を出しますが、アテネ軍もペルシア軍と交戦中であり援軍には来ませんでした。

この時にスパルタ軍はペルシアに対して防戦一方で反撃しようとはしなかった話があります。

占いで凶と出た為に反撃しなかった様です。

これに痺れを切らしたギリシア側のテゲア軍が単独でペルシア軍を攻撃します。

ここでスパルタのパルサウス将軍が占いを再度行うと吉と出た為にスパルタ軍も反撃を開始しました。

この時に山の上に布陣していたスパルタ軍が有利に働きギリシア連合軍が押し始めたわけです。

さらに、スパルタの軽装歩兵が投げた石がマルドニオス将軍の頭にヒットし、そのまま戦死してしまいました。

指揮官が死亡したペルシア軍は大混乱となりプラタイアの戦いはギリシア連合軍の勝利が決定します。

サラミスの海戦とプラタイアの戦いが決定打となり、ペルシア戦争はギリシアの勝利となったわけです。

ただし、ペルシア戦争で勝利したアテネとスパルタですが、今度はギリシアの覇権をめぐって争う事になります。

ペロポネソス戦争でアテネと争う

ペルシア戦争では共に戦ったアテネとスパルタですが、今度はギリシアの覇権を巡ってアテネとスパルタが争う事になります。

ペロポネソス同盟とデロス同盟

ペルシアの脅威は一旦は去ったギリシアですが、ペルシアは大国であり安心出来るような状況ではありませんでした。

そこでアテネは多くのポリスと同盟を結ぼうとします。

戦いになると艦隊を出す事を約束し艦隊が出せないポリスは、一定の金額をデロス島の金庫に入れる事になります。

デロス島に共同金庫が置かれたためにデロス同盟と呼びます。

このアテネの行動を抜け駆けだと感じたスパルタは、自らも多くのポリスと同盟を結ぶ事を考えてペロポネソス同盟を作り出します。

ペロポネソス同盟の盟主は勿論スパルタです。

ここにおいてギリシアの覇権を巡ってアテネとスパルタは対立するようになります。

スパルタはスパルタ教育でも分かるように過酷な軍国主義を取っていた国です。

それに対して、アテネは芸術を好んだりしている為、スパルタの方が同盟国に厳しい条件を出している様に思うかも知れません。

しかし、実際にはアテネはデロス同盟の盟主の座を利用して利益を得ようとした為に、デロス同盟に参加したポリスから反感を持たれている事実があります。

デロス島の金庫をアテネに無理やり移動させるなどの行為も反感を持たれる原因となっています。

それに対して、スパルタの方がペロポネソス同盟の諸ポリスを尊重した話が残っているわけです。

この差が、ペロポネソス戦争でスパルタが勝利する原因の一つとなったと考える人もいます。

ペルシアの思惑

アケメネス朝ペルシアは、ギリシアの征服はペルシア戦争の敗北により諦める事になります。

しかし、ペルシア側としては、アテネとスパルタが手を組むのが脅威と感じていました。

アテネとスパルタが仲違いを興せば、ペルシアにもまだまだチャンスは訪れると考えていたのでしょう。

ペルシアとしては、アテネに味方したりスパルタに味方したりしますが、本音で言えばギリシアのポリス同士で争っていて欲しかったのだと感じています。

尚、ペロポネソス戦争に関してはペルシアが裏で糸を引いていた説も有力です。

海軍のアテネと陸軍のスパルタ

ギリシアの覇権を巡ったペロポネソス戦争ですが、海軍力は交易が盛んなアテネに分があり、陸の戦力ではスパルタに分があったようです。

地政学でいうランドパワーとシーパワーの戦いとも言えます。

ペロポネソス戦争の頃のアテネには、古代ギリシアで最大の政治家とも呼ばれたペリクレスがいました。

ペリクレスは強大なスパルタ陸軍との決戦は避けて籠城策を取り、海軍力を使いスパルタを追い詰めようと画策します。

実際にアテネは海軍力の有利を生かしてスパルタやペロポネソス同盟のポリスを何度も破る事になります。

しかし、アテネではエジプトやリビアで広がったとされる伝染病が発生し、ペリクレス自身も伝染病でこの世を去る事になります。

ペリクレスを失ってもアテネは有利に戦局を進めて、一時はスパルタが和議を申し入れた程です。

しかし、アテネ側は戦局を有利に進めている事もあり和議を蹴っています。

これによりスパルタ軍を中心とするペロポネソス同盟は結束力を高めた話も残っています。

アテネが和議を結ぶ可能性がない事で、負ければ滅ぼされる事が頭に浮かんだからでしょう。

スパルタの勝利とアルキビアデス

スパルタとの和議を蹴ったアテネですが、長く続いた戦いにより厭戦気分となっていきます。

この時に、アテネの将軍であるニキアスはスパルタと和約(ニキアスの和約)を取り付ける事になります。

これにより一時的にペロポネソス戦争は休戦状態となったわけです。

しかし、アテネ側のタカ派であるアルキビアデスは徹底抗戦を主張し、シケリア島への遠征を希望します。

これによりアテネはアルキビアデスとニキアスを将軍としてシケリア遠征を行います。

アルキビアデスは外見もよくアテネ市民には人気がありましたが、政敵も多くいました。

アルキビアデスは政敵により、シケリアから本国に撤退する命令が下ります。

しかし、アテネに戻れば処刑される可能性もあった為に、アルキビアデスは敵国であるスパルタに亡命する事になりました。

ここでアルキビアデスは、アテネ側の情報を全てバラした為に、シケリア遠征も失敗に終わりペロポネス戦争はスパルタの勝利を決定づけます。

尚、アルキビアデスはスパルタに亡命すると、スパルタ人と同じ生活をしてスパルタ市民にも人気があった話もあります。

アルキビアデスはスパルタ王であるアギス二世が他国に遠征中に王妃ティマイアを密通した話もあるわけです。

アルキビアデスは人の心を掴むのは上手いわけですが、素行は悪く忠誠心や愛国心は無いと言えるでしょう。

因みに、アルキビアデスはこの後に、アケメネス朝ペルシアにも亡命しますが、再びアテネの政権の中枢に戻る事になります。

しかし、アテネが陥落しペルシアに行く途中に、スパルタの息が掛かったファルナバゾスにより殺害される事になります。

スパルタの全盛期

ペロポネソス戦争でアテネを破った頃がスパルタの全盛期だとされています。

ただし、スパルタの全盛期は長くは続きませんでした。

僭主三十人政権がアテネに生まれる

ペロポネソス戦争はスパルタの勝利に終わりましたが、降伏したアテネでは僭主三十人という政権が出来る事になります。

別名として三十人政権とも呼ばれています。

僭主三十人に裏にはスパルタの息が掛かった政権がアテネで誕生したわけです。

僭主三十人のメンバーの中には、哲学者として有名なソクラテスの弟子であるクリティアスなどもいました。

しかし、僭主三十人の政権は一年も持たず崩壊しています。

尚、クリティアスやアルキビアデスがソクラテスの弟子だった事が、ソクラテスが危険人物とされ処刑される原因になったと考える人も多いです。

スパルタは奴隷を従わせるための、軍事訓練ばかりが活発な国であり、アテネの様な大きなポリスを従わせる様な術を持ち合わせていなかったのかも知れません。

多くのポリスはスパルタの盟主を望んだわけではなかった

ペロポネソス戦争でスパルタに味方したテーベやコリントなどの有力ポリスもスパルタを心から支持していたわけではありません。

先に述べた様に、民主的な政治を望んでいるはずのアテネが、デロス同盟を結んだ他のポリスを圧迫しだした為です。

アテネが変な方向に進んでしまった為に、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟に加入した過程があります。

さらに、スパルタはアテネを破った事で、ギリシア全土のポリスの盟主の様な顔を始めるわけです。

スパルタのやり方をギリシア全土のポリスにやらせようとした為に反発を招く事になります。

スパルタ教育を受け入れるのは無理があるのでしょう。

アテネが強大な頃は、アケメネス朝ペルシアはスパルタを裏で支援していたとされていますが、スパルタが強大になる事もペルシアは嫌っていたわけです。

この事からスパルタとアケメネス朝ペルシアも険悪となります。

アケメネス朝ペルシアはギリシア全土の覇権を握る強力なポリスの出現を恐れていた事が原因です。

スパルタが軟弱になった??

一説によるとペロポネソス戦争で勝利した事で、スパルタは非常に裕福となった話があります。

貧富の差が出たなどの話もあるほどです。

しかし、大量の富がスパルタに流れ込んだ事で、スパルタ教育の許でもあるリュクルゴス制が崩壊したとも言われています。

贅沢は敵だとしていたスパルタ市民が裕福になった事でハングリー精神を失ってしまった話もあるわけです。

スパルタは全盛期が滅亡への序曲になっている部分もあったようです。

スパルタの衰退

ペロポネソス戦争の直後がスパルタの全盛期でしたが、他のポリスの反感を買った事もあり衰退していく事になります。

コリント戦争とアンタルキダスの和約

ギリシアにおいて強大な勢力を有したスパルタですが、有力ポリスの一つであるテーベが反旗を翻します。

ペロポネソス戦争では、スパルタ側として戦ったテーベだけに衝撃は大きかったはずです。

テーベに追従するように、アテネ、コリント、アルゴスなどのポリスがスパルタに対して反抗してきます。

テーベがスパルタに敵対したこれらの戦いをコリント戦争と呼びます。

陸戦においてはスパルタやスパルタ配下のポリスが圧倒しますが、海戦となるとアテネには歯が立ちませんでした。

アテネはペロポネソス戦争でスパルタに破れた事もあり、単独ではスパルタに敵いません。

そこでコリント戦争ではアテネはペルシアに力を借りて、ペルシア艦隊を率いたアテネの名提督コノンがスパルタ海軍を破っています。

アテネとアケメネス朝ペルシアが手を組んで、スパルタと戦ったわけです。

アテネが海戦でスパルタを破った為に、エーゲ海の制海権はアテネが握る事になります。

しかし、ペルシアもアテネが強大になる事を望んでいるわけではありません。

スパルタはそういった状況を読み取り、スパルタとアケメネス朝ペルシアの間で、アンタルキダスの和約が結ばれる事になります。

アンタルキダスの和約は別名として、王の和約とも呼ばれています。

因みに、アンタルキダスはスパルタ側の交渉の責任者であるアンタルキダスの名前に由来しています。

アテネの衰退

スパルタを破りエーゲ海での制海権を獲得した事でスパルタのライバルであるアテネは復活するのではないか?と思われました。

アテネは、かつてのデロス同盟の様に諸ポリスと同盟を結び覇権を握る事を考える様になります。

さらに、アテネはナクソス島沖の海戦でもスパルタを破る戦果を挙げる事に成功します。

ペロポネス戦争の終了からアテネでは、敗因を分析して上手く対処していました。

しかし、海戦でスパルタを破るようになると、また調子に乗り出すわけです。

アテネと同盟したポリスに、軍資金の提供を依頼する様になります。

傲慢になったアテネに同盟ポリスは反旗を翻すようになり、結局、アテネは昔の栄光を取り戻す事が出来ませんでした。

ここにおいてアテネの衰退も決定づけられる事になります。

レウクトラの戦いでテーベに大敗する

スパルタの滅亡は、レウクトラの戦いで決定的となります。

コリント戦争の時に、テーベはスパルタから独立をしますが、勢いを盛り返したスパルタに敗れて再び傘下に入っていました。

レウクトラの戦いは、戦力的にはスパルタを始めとするペロポネス同盟側の方が圧倒的に有利でした。

しかし、テーベ側には、天才将軍とも言えるエパメイノンダスがいたわけです。

エパメイノンダは、 斜線陣を考案し最強と呼ばれたスパルタ軍を打ち破っています。

正面からの同じ戦力での戦いでは最強を誇るスパルタ軍も、エパメイノンダスの斜線陣には敗北しています。

レウクトラの戦いでは、スパルタ王であるクレオンブレトス一世が討ち取られる結果となっています。

テルモピュレイの戦いでは、レオニダス王が討ち取られはしましたが、その後にスパルタは発展する事になりました。

しかし、レウクトラの戦いでクレオンブレトス一世が戦死した事で、スパルタは滅亡へ向かっていく事になります。

尚、レウクトラの戦いでテーベ軍の中には神聖隊と呼ばれる屈強な部隊がいました。

テーベ軍の神聖隊は、レウクトラの戦いでは大活躍するわけですが、同性愛のカップルで作った軍団だったわけです。

神聖隊の狙いとしては、男性同士の同性愛者であれば戦場にも連れて来れるし、パートナーを置いて逃亡も出来ないし、死ぬ気になって戦ってくれる事を予想した話があります。

スパルタの様な過酷な軍事訓練を施した国家であれば、これくらいの事をしないと勝てないと天才将軍であるエパメイノンダスも考えたのかも知れません。

尚、レウクトラの戦いでスパルタを破り英雄となったエパメイノンダスですが、後には一兵卒に落とされたりもしています。

最後は、マンティネイアの戦いで敵陣に突っ込み撃破しましたが槍を受けて亡くなっています。

スパルタを破った斜線陣は、マケドニアに伝わりアレキサンダー大王がさらに発展させています。

ガウガメラの戦いでマケドニア軍が強大なペルシアを破る事が出来たのは、進化させた斜線陣を上手く使ったからだと言われているわけです。

尚、アレキサンダー大王が目にしながら唯一制圧しなかったのはスパルタだとも言われています。

スパルタの滅亡

レウクトラの戦いに敗れたスパルタはどんどん弱体化していきます。

ギリシアの中心であったのは過去の事であり、存在感を無くしていくわけです。

この頃になるとマケドニアの勢力が活発となります。

先のレウクトラの戦いをマケドニアの王であるフィリッポス二世が見ていて斜線陣をマケドニアに持ち込んだともされています。

フィリッポス二世はギリシアでの影響を強めてコリントス同盟を多くのポリスと結びますが、スパルタは参加しませんでした。

マケドニアにはエリス、アカディアなどのポリスと連合を組みメガロポリスの戦いがありましたが敗れています。

メガロポリスの戦いはマケドニアに戦力的に劣っていたわけで順当に敗れています。

マケドニアはアレキサンダー大王の代になると、インドの辺りまで支配領域となる大帝国にもなるわけです。

しかし、アレキサンダー大王の死後に帝国は分裂しています。

スパルタは、その後はアギス四世の改革などもありアカイア同盟やローマ帝国などとも戦っています。

ナビス戦争の頃になると、スパルタの奴隷の供給地でもあったメッセニア地方も奪われています。

スパルタの社会が崩壊していく様が読み取れます。

ナビス戦争はスパルタの指導者であったナビスの名前から取られていますが、ナビス自身がスパルタ王家とされるアギス家でもエウリュポン家でもないとされています。

ナビスが亡くなるとスパルタはアカイア同盟の傘下となるように強要される事になったわけです。

アカイア同盟はスパルタを強制的に加入させた事で、ペロポネソス半島の統一に成功しました。

しかし、アカイア同盟も共和制ローマに敗れてギリシアは、ローマの属州となります。

これによりスパルタは滅亡したとされています。

スパルタの政治

スパルタの政治について解説します。

二人の王がいた

スパルタには二人の王がいました。

アギス家とエウリュポン家が交互にスパルタ王になっていたともされています。

スパルタのライバルであるアテネにも過去には、ケクロプスがなる王がいた事がギリシア神話に書かれています。

ただし、アテネ王ケクロプスは上半身が人間で下半身が蛇という事になっています。

実在したかは定かではなく、歴史にアテネが登場する頃にはアテネ王家は廃れていたようです。

アテネはソロンが改革するわけですが、その時には既に王家は消滅していたとされています。

尚、スパルタには30人の長老会があり、軍を定年した28人と二人の王が物事を決める事が出来ます。

長老会の下には、若者が多く所属する民会があり、民会で決定された事も長老会で否決する事も可能でした。

スパルタ市民は過酷な生活を余儀なくされていましたが、参政権もあった記録があります。

尚、スパルタの長老会に入れるのは、60歳になり軍を定年になった人だけです。

さらに、長老会は終身制となっていました。

スパルタは鎖国状態だった

スパルタは鎖国状態だった話もあります。

外部からは人を入れない仕組みがあったようです。

スパルタと聞くと厳しい軍国主義から帝国主義を採用していた危険な国と思うかも知れません。

しかし、先に述べた様にアテネよりもスパルタの方が他のポリスを尊重していた話があります。

ペロポネソス戦争でスパルタが勝利した原因の一つに、アテネの傲慢なやり方が原因だとする話もあります。

アテネを中心にデロス同盟が結成されたわけですが、アテネは盟主の座をいい事にやりたい放題で、同盟ポリスからの徴収を多くしていた話があります。

それに対して、スパルタは同盟したポリスの自治などを尊重していた話もある位です。

帝国主義の恐怖政治のスパルタと、民主的で平和を好むアテネという図式は、当てはまらないとも言えるでしょう。

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宮下悠史

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