名前 | 周の東遷 |
時代 | 紀元前770年ー紀元前738年 |
年表 | 紀元前771年 西周王朝の崩壊 |
紀元前770年 周の東遷期の始まり | |
紀元前738年 周の平王が洛陽に入る |
周の東遷は西周王朝が崩壊し、周の平王が洛陽に拠点を置いた事を指します。
周王朝の本拠地が西の鎬京から東の洛陽に移った事で、周の東遷と呼ばれています。
史記の周の東遷を見ると、周の幽王が褒姒を溺愛し、申候と対立した事で起こり、周の幽王は諸侯の信頼を失っていく事になります。
周の幽王は申侯と犬戎の攻撃を受け鎬京から脱出しますが、驪山の麓で殺害され西周王朝が滅びました。
申にいた元の太子である宜臼が洛陽に入り周の平王となり、これにより周の東遷が完了した事になっています。
しかし、竹書紀年などでは周の平王と携王の二王朝並立時代があり、周の平王も直ぐに洛陽に入ったわけでもなく、紀元前738年に漸く周の東遷が完了したと考えられています。
周の東遷により春秋戦国時代が始まりますが、周王朝は権威だけの存在になり、諸侯を制御するだけの力は持ちませんでした。
今回は周の東遷を解説します。
史記の周の東遷
史記の周の東遷ですが、周の幽王が褒姒を手に入れ寵愛した事に始まります。
周の幽王は人望があった鄭の桓公を司徒にしたりもしていますが、評判が悪かった虢石父を重用するなども行いました。
周の幽王は申后を廃し褒姒に皇后の座を与え太子の宜臼を廃し、褒姒の子の伯服を太子に指名する事になります。
さらに、周の幽王は笑わない美女である褒姒を笑わせ偽の狼煙で諸侯を招集した事で、諸侯の信頼を失いました。
こうした状況を見て周の伯陽は「周は滅亡する」と予言しました。
申侯は繒や犬戎らと鎬京を攻撃し、周の幽王は驪山の麓で殺害され、褒姒は捕虜となり西周王朝は崩壊しました。
史記では鄭の桓公も周の幽王と共に亡くなった事になっています。
周の幽王が亡くなると諸侯は申にいた宜臼を立てて周の平王とし、平王は晋の文侯や秦の襄公の協力もあり洛陽に移り、これが周の東遷となります。
秦は周の東遷での功績が評価され諸侯となりました。
史記の周の東遷を見ると周の平王が直ぐに洛陽に移り東周が始まった様な印象を受けます。
実際には周の東遷が完了したのは紀元前738年であり、周の幽王が驪山の戦い(紀元前771年)に殺害されてから、30年以上も経った後に周の東遷が完了した事も近年の研究で分かってきました。
尚、史記では申侯は犬戎と共に戦っており犬戎は周の平王を支持したはずなのに、何故か「戎の仇を避けて洛陽に遷都した」とする記述があります。
犬戎と共に戦っておきながら、戎を敵扱いするのも変な話でもあります。
西周王朝の崩壊
鄭の桓公と伯陽
国語の鄭語などを見ると鄭の桓公は天下の輿望を集めて周王朝の司徒になったとあります。
鄭語によれば周の幽王の8年(紀元前774年)に、鄭の桓公は司徒になった記録が存在します。
周の幽王の11年(紀元前711年)には西周王朝は崩壊しており、多難な時期に鄭の桓公は司徒になったと言えるでしょう。
鄭の桓公は周王室が危機的な状況にある事を察知しており、太史の伯陽に相談しました。
伯陽は東虢と鄶に鄭の財産を預け、周が崩壊した時には斉、秦、晋、楚の国が強大になると予言しました。
鄭の桓公は伯陽の言葉に従い東虢と鄶に家族や財産を預ける事になります。
鄭は周の崩壊に備えて対策を打っていた事になります。
尚、西虢も周の東遷の時代に周の携王を擁立しており、周が崩壊した時の対策を打っていた可能性も残っています。
褒姒と虢石父
周の幽王は褒姒を寵愛し、褒姒は伯服を生みました。
西虢の虢石父は周の幽王が褒姒を寵愛している事に目を付けて、褒姒に接近し権力を握ろうと考えます。
褒姒の方でも自分の子である伯服を後継者にし、申后及び太子の宜臼を追い出そうと考え、虢石父と利害が一致し結託する事になります。
虢石父と褒姒は申后や宜臼を讒言しました。
周の幽王自身も褒姒を皇后とし、伯服を太子にしたいと考えていた事で、申后を廃し褒姒を皇后とし、宜臼を廃し伯服を太子としました。
宜臼は太子の座を剥奪され身の危険を感じたのか、母親の実家である申に亡命したわけです。
宜臼は申公が匿いました。
周の平王の擁立
正義の引く竹書紀年では、宜臼は申に亡命した後に、宜臼は申において申侯、魯侯、許の文公により擁立された事になっています。
さらに、国語の鄭語を見ると申、呂、繒が周の平王を支持した事になっています。
竹書紀年の記述に従えば、この時点で西周王朝は周の幽王と周の平王(宜臼)に分裂していたと言えるでしょう。
周の東遷の第一段階において、周の平王を支持したのは申、魯、許、呂、繒の諸侯という事になります。
周の幽王が生きている段階では、晋も鄭も平王を支持していたわけではありません。
尚、呂、繒、許の国が平王がいる申から近いのに対し、魯だけが遠方の諸侯に見えるのではないでしょうか。
しかし、711年に斉、魯、鄭が許を下し斉が魯に許を与えようとした話があります。
この事から魯は許の近辺に権益を持っていたと考えられるわけです。
魯は許田を通じて、申にいる周の平王を支持していたのでしょう。
西周王朝の崩壊
周の幽王としては、周の平王は危険分子であり、申へ返還要請をしました。
しかし、申は周の幽王を恨んでいたのか、返還要請を拒否したわけです。
周の幽王としては申侯や周の平王を野放しにする事は出来ず、申に出兵しました。
ここにおいて周の幽王と周の平王を擁立するグループの戦いとなりますが、犬戎も味方に付けた申、呂、繒、許らの反撃にあいました。
周の幽王は最終的に周の平王を擁立した申らに敗れて命を落としています。
史記だと驪山の麓で周の幽王と共に鄭の桓公も命を落とした事になっていますが、近年では鄭の桓公は幽王と共に死んだわけではないと考えられる様になってきています。
史記では周の幽王が褒姒を笑わせる為に、諸侯を無駄に招集した話もありますが、これは創作だと思った方がよいでしょう。
ただし、周の幽王が申を中心とするグループに敗れて命を落とした事は確実です。
西周王朝は周の幽王の死により崩壊しました。
周の東遷前夜
三者鼎立
西周王朝が崩壊した事を東虢と鄶の君主が知ると、どさくさに紛れて鄭の桓公が預けた財産を全て奪い取りました。
この時に、鄭の桓公は成周(洛陽)におり、周軍を使って東虢と鄶を滅ぼし、周辺国も従属させ一大勢力となります。
鄭の桓公は中原の地に突如として鄭を誕生させる事に成功しました。
虢公翰も周の王子である余臣を周の携王として即位させています。
申には周の平王がおり、一般的には周の携王と周の平王による二王朝並立時代に突入したと考えられています。
普通で考えれば周の平王に一番正統性があると思うかも知れませんが、周の平王は廃太子であり、その部分がネックになっていたともされています。
洛陽の南の地域で一大勢力となっていた鄭の桓公も周の厲王の子で、周の宣王の弟でもあり、王として立つだけの正統性があったと考えられています。
周の平王、周の携王、鄭の桓公による三者鼎立時代に突入した事になります。
(携王がいた場所は不明ですが、虢の地で即位した話もあり、虢の周辺が勢力圏だと考えました)
一般的には紀元前770年から春秋戦国時代が始まったとされていますが、実際には紀元前770年の段階では平王は洛陽に入れておらず、周の東遷期に入っただけとみる事も出来るはずです。
平王による周の統一
東遷期に入りますが、紀元前760年頃までには鄭の桓公も亡くなったと考えられており、後継者となった鄭の武公は周の平王に臣従を誓いました。
鄭の武公と申侯による政略結婚も行われています。
鄭が平王に味方した事で、平王側は圧倒的に有利になった事でしょう。
さらに、鄭は晋とも友好関係を結び共闘関係となります。
東遷期に晋が鄭の領土を飛び越えて蔡と共に蔡の南方への遠征を行った記録があり、晋と鄭が誼を結んでいた事は確実でしょう。
周の携王を擁立した西虢も紀元前759年までには周の平王に鞍替えしたと考えられており、周の平王が圧倒的に優勢となったはずです。
それでも、周の携王は750年まで持ちこたえており、虢以外の何かしらの勢力が支援していた事は間違いないでしょう。
しかし、結局は周の携王は晋の文侯に討たれて最後を迎えています。
尚、繋年によると周の携王が亡くなってから9年間も周王が不在だった時代が続いた事が記録されています。
周王が不在というのは、諸侯たちが周の平王への朝見を行わなくなったのではないかとも考えられています。
周王不在という記録は、晋の文侯が周の携王を殺害した事による諸侯の不信感があり、周への朝見を中止したのではないかとも考えられているわけです。
周の東遷の完了
紀元前746年に晋の文侯が亡くなると、晋では翼の本家と曲肥の分家の争いとなり、王室に関与する事が出来なくなりました。
こうなると周の内部でも争いとなり、申と鄭による主導権争いとなったのでしょう。
鄭は郟と謝の間の地を奪い、申呂と許の間を分断しました。
これにより鄭は平王を擁立した勢力の中でトップの実力を持った事になります。
鄭の荘公は周の平王の為に土地を割き、洛陽に入れました。
周の東遷は最終的に鄭の荘公により、成されたと言えるでしょう。
申は周の平王の外戚でありながらキングメーカーになる事は出来ませんでした。
周の東遷は紀元前738年に完了したと考えられています。
周の東遷が完了した平王ですが、鄭の言いなりになる事は無く、虢に接近するなどの動きも見せています。
尚、史記などを見ると周の平王の元に秦の襄公が参戦し活躍した話しがあります。
しかし、紀元前738年の段階では秦の襄公は亡くなっており、秦の文公の時代になっていました。
秦の襄公が周の東遷で活躍したと言うのは、周の故地を領有する大義名分を得る為の作り話だとも考えられています。
尚、紀元前738年に周の東遷が終わった事で、春秋戦国時代に完全に突入したとも言えるでしょう。