室町時代 鎌倉時代

尊良親王は九州や越前で戦うも金ヶ崎に散る

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宮下悠史

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名前尊良親王
生没年1306年or1308年ー1337年
時代南北朝時代
一族父:後醍醐天皇 母:二条為世の娘 妻:御匣殿、大納言典侍
兄弟:世良護良宗良、恒良、成良、義良、懐良など
1333年 鎮西探題の滅亡
1336年 箱根竹ノ下の戦い
1337年 金ヶ崎城の戦い
コメント後醍醐天皇の第一皇子

尊良親王は後醍醐天皇の第一皇子であり、大覚寺統の皇太子・邦良親王が亡くなった時は皇太子にも推されました。

しかし、後醍醐天皇は尊良親王の気質に問題があると感じたのか、世良親王や恒良親王を後継者にしようと考える様になります。

元弘の変では土佐に配流されてしまいますが、後に九州の肥前彼杵郡に現れ江串氏を味方に付け鎮西探題を滅ぼす戦いの一助となりました。

建武の乱で足利尊氏と後醍醐天皇の和睦が成立すると、尊良親王は新田義貞と共に越前に向かう事になります。

金ヶ崎城の戦いで窮地に陥り、尊良親王は新田義顕と共に世を去りました。

太平記の第十八巻で尊良親王と新田義顕の最後が語られていますが、名場面となっています。

皇太子に推挙される

鎌倉時代末期の朝廷は持明院統と大覚寺統による両統迭立の時代でしたが、文保の和談により後醍醐天皇が即位しました。

この時に治天の君が後宇多上皇、天皇が後醍醐天皇、皇太子が邦良親王であり、大覚寺統が皇位を独占していたわけです。

持明院統では量仁親王が次の皇太子に選ばれていましたが、大覚寺統の攻勢の前に苦しんだ時期でもあります。

こうした中で邦良親王が亡くなり、皇太子が不在になってしまいました。

持明院統では当然ながら、次の皇太子である量仁親王を推しますが、後醍醐天皇は尊良親王を推しています。

後醍醐天皇の名前は「尊治」であり、一字を与えている事からも、尊良親王への期待は大きかったのでしょう。

しかし、鎌倉幕府が皇太子に指名したのは、量仁親王であり、尊良親王は皇太子になれませんでした。

後醍醐天皇は尊良親王が後継者になれない事に不満であり、倒幕を目指す事になります。

ここで変心があったのか、後醍醐天皇は邦良親王が亡くなった時は、尊良親王を推していましたが、世良親王に期待を寄せる様になります。

世良親王の母親は家柄もよく、尊良よりも後継者に相応しいと考えたのでしょう。

尚、尊良親王は1326年に元服しましたが、弟の世良親王は1324年に元服しており、後醍醐天皇の期待の大きさは最初から世良親王にあったとも言われています。

元寇の変で捕らえられる

吉田定房の六波羅探題への密告により、後醍醐天皇の倒幕計画が明らかになりました。

これが元弘の変となります。

後醍醐天皇は笠置山に籠城しますが、尊良親王、護良親王宗良親王らも笠置山に落ち延びたと考えられています。

笠置山城の戦いで後醍醐天皇や宗良親王は捕虜となりますが、護良親王は逃げ延び楠木正成と倒幕の再開を目指しました。

尊良親王は河内で北条貞冬(金沢貞冬)の家来である宗像四郎に捕らえられたと言います。

北条貞冬の宿所に尊良親王は監禁され、西園寺公重事情聴取においては、後醍醐天皇と同じ申し開きをしたと伝わっています。

尚、新葉和歌集には尊良親王がこの頃に詠んだ歌が掲載されています。

※書籍「皇子たちの南北朝」より

元弘のはじめつかた、世の中みだりがはしく侍りしに、思ひ侘び、さまなどかへけるよし開きて、瓊子内親王もとへ申しつかはしける

いかで猶我もうき世をそむきなむ うらやましきは黒染めの袖

どうやら尊良親王は世俗の喧騒を嫌がり、煩悩から離脱した世界を望んだ尊良親王の心情を描いているともされています。

この点は宗良親王に近い部分もあったのでしょう。

鎮西探題を滅ぼす

元弘二年(1332年)に尊良親王は土佐に配流されますが、突如として九州の肥前彼杵郡に現れました。

ただし、どの様にして尊良親王が肥前まで行ったのかはよく分かっていません。

良覚の博多日記によると、江串三郎入道が尊良親王を奉じて挙兵したと言います。

尊良親王は九州において、鎌倉幕府の出先機関である鎮西探題の勢力と戦う事になります。

九州の少弐氏や大友氏が朝廷軍に寝返った事もあり、九州での戦いに勝利し尊良親王は大宰府に入りました。

大宰府に入ってからも禰寝清武や相良長氏に対し、兵を集めた事も分かっています。

鎮西探題を滅ぼす戦いにおいて、尊良親王も活躍した事は間違いなさそうです。

この後に、尊良親王は後に京都に戻る事になります。

箱根竹ノ下の戦い

後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、中先代の乱が終わると足利尊氏が鎌倉で建武政権を離脱しました。

後醍醐天皇は新田義貞に鎌倉討伐を命じますが、新田義貞は尊良親王を奉じています。

箱根竹ノ下の戦いでは、竹ノ下方面に脇屋義助と共に尊良親王も同行しました。

しかし、竹ノ下の戦いで大友貞載や塩冶高貞の裏切りにより敗れています。

尊良親王は新田義貞や脇屋義助と共に東海道を敗走しました。

足利尊氏は北畠顕家により一度は敗れますが、九州から復活し後醍醐天皇や新田義貞を比叡山で包囲しました。

越前に向かう

後醍醐天皇は足利尊氏と勝手に和睦してしまいますが、新田義貞に発見されてしまいました。

この時に、後醍醐天皇は恒良親王に譲位し、尊良親王と共に新田義貞に預ける事になります。

新田義貞は恒良親王と尊良親王、洞院実世らと共に越前に下向しました。

ただし、新田勢は圧倒的に劣勢であり、苦しい立場となります。

尊良親王の最後

金ヶ崎城の戦いが勃発すると、尊良親王は恒良親王と共に金ヶ崎城内にいました。

新田義貞脇屋義助や洞院実世らと共に、援軍を求め城を脱出しています。

金ヶ崎城内では飢餓に苦しみ魚を釣ったり、海藻や馬を食べるなどし飢えを凌いでいました。

幕府軍の斯波高経は金ヶ崎城の窮状を知り、総攻撃を仕掛けてきました。

太平記によると新田義顕は尊良親王の前に行くと、自分達は自害するが尊良親王は何もせずじっとしている様に進言しています。

尊良親王は皇族であり、武士たちも尊良親王には手を出さないと新田義顕は考えたのでしょう。

この時に尊良親王は機嫌よく笑い「後醍醐天皇が私を主将とし、其方を腹心の武将とした。腹心の武将がいないのに、どうして主将が事を成す事が出来るだろうか」と問いました。

尊良親王は仇はあの世で報いると述べ、既に自害の覚悟を決めていたわけです。

自害の作法を尊良親王は新田義顕に問いました。

尊良親王の言葉に新田義顕は涙を流し、先に自害し手本としています。

新田義顕は尊良親王の前で倒れました。

それを見た尊良親王は新田義顕が自害した短刀を手に取り、胸の辺りに突き立てて自害しています。

新田義顕に尊良親王は被さる様に最後を迎えています。

尊良親王の最後を見届けた藤原行房、里見時義、気比氏治は自害に踏み切り、周りの者達は、次々に自害し三百人以上が刺し違えて亡くなりました。

恒良親王は城を脱出しますが、虚偽を足利尊氏に伝えた事で、毒殺されたとも伝わっています。

※この記事や太平記や森茂暁氏の皇子たちの南北朝をベースに作成しました。

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