名前 | 趙桓子 |
本名 | 趙嘉 |
生没年 | 生年不明ー紀元前424年 |
勢力 | 趙 |
年表 | 紀元前424年 趙の献侯を追い出し代で立つ |
趙桓子は趙襄子の弟とも子ともされている人物です。
史記だと趙桓子は趙襄子の弟だとありますが、世本では趙桓子と趙の献侯は共に趙襄子の子だとされており、この辺りははっきりとしません。
別説として趙桓子は趙襄子と西戎の女性の間に生まれた子であり、趙の献侯は趙襄子の兄の伯魯の孫だったとする説もあります。
趙桓子は趙の献侯を放逐し、代を本拠地としましたが、僅か一年で没してしまいます。
趙桓子が亡くなると、趙の国人は趙桓子の子を殺害し、趙の献侯を再び君主として立てました。
識者の間では趙桓子が代を本拠地として選んだ事で、趙桓子は北方の異民族を打ち破り勢力を拡大させようとしたのではないかとも考えられています。
尚、趙桓子の名は趙嘉だとされていますが、趙の悼襄王の子で代王嘉となる趙嘉とは別人なので注意が必要です。
趙桓子と趙の献侯の関係
趙桓子を考える上で、趙襄子が即位した経緯を考える事は重要でしょう。
趙襄子は母親が翟の娘であり家柄もよくはありませんでした。
しかし、趙襄子を姑布子卿や父親の趙鞅らが高く評価した事で、元の太子である伯魯を廃して趙の当主になった経緯があります。
兄の伯魯は太子の位を廃されても趙襄子を可愛がり補佐した事で、趙襄子は兄の伯魯の子が趙の後継者になるべきだと考える様になります。
史記によれば伯魯の子が代の成君であり、その子が趙浣こと趙の献侯だったわけです。
趙襄子が亡くなると、趙の献侯が後継者として立ちますが、史記によれば趙桓子が趙の献侯を放逐し、趙の君主になったとあります。
趙桓子は代を本拠地としました。
趙桓子が代を本拠地としたのは一つのポイントだと言えるでしょう。
趙桓子が代を本拠地とした理由
趙襄子の時代に遡りますが、趙襄子は智伯を討ち趙は魏や韓よりも強大となりますが、中原への進出は考えず異民族を倒し勢力を拡大させたと考えられています。
趙襄子が智伯を破ってからの動向は不明ですが、名目上は趙、魏、韓は晋の配下であり、趙襄子が晋の正卿になったとする説が有力です。
しかし、趙襄子は晋の正卿になった立場を利用せず、異民族が支配する代を占領した様に、異民族支配を重視し中原には進出しなかったとされています。
趙の中では中原進出を図る派閥と北方の異民族討伐を優先させたい派閥があったとも考えられています。
北方の異民族討伐を優先させたい派閥の受け皿となったのが、趙桓子だったのではないかとも考えられています。
趙桓子が代を本拠地としたのは、異民族討伐を優先させたいとする願いからだったのはないかとされているわけです。
それに対し、趙の献侯は中牟を本拠地としており、衛を倒し中原への進出を考える派閥の受け皿だったと考える事が出来ます。
趙の中で北方の異民族討伐派と中原進出派の争いが表面化したのが、趙の献侯と趙桓子の後継者争いだったとみる事が出来ます。
しかし、趙桓子が趙の献侯を追放してから、1年で没してしまった事で、後継者争いは呆気なく終焉を迎えたのでしょう。
趙桓子が亡くなったのは紀元前424年であり、趙桓子が亡くなると国人らは趙桓子の子らを殺害し趙の献侯を立て趙の君主としました。
尚、趙桓子と趙の献侯が後継者争いを繰り広げている間に、晋の正卿は魏の文侯がなってしまったのでしょう。
魏の文侯は晋の公室の権威を最大限利用し、魏が戦国七雄の最強国へとのし上がる事になります。
趙桓子と趙献侯の後継者争いで漁夫の利を得たのは、魏だったと言えるでしょう。