張弘は正史三国志の注釈・先賢行状に登場する人物です。
先賢行状に名前が登場しますが、1回だけしか登場しません。
さらに言えば、張弘は陳寿が書いた正史三国志の本文には名前が全く登場しない状態です。
先賢行状の記述を見るに、張弘は陳登に近しい人物なのでしょう。
陳登は呂布の為に動いている様に見せながらも、父親の陳珪と同じように呂布を嫌っていました。
陳登は西暦198年の下邳の戦いでは、曹操に味方しますが、呂布は陳登の弟らを人質としています。
張弘は呂布配下でしたが、機転を利かせ呂布を裏切り陳登の弟たちを連れて城を脱出しました。
陳登の家族が助かったのは、張弘のお陰だと言えるでしょう。
呂布の配下
呂布は劉備を敗走させますが、曹操の援軍である夏侯惇がやってくると高順を派遣し打ち破りました。
曹操が自ら攻めて来ると呂布は陳宮や高順らと共に、下邳の城に籠城する事となります。
下邳の戦いが勃発するわけですが、この時に下邳城内に張弘がいました。
先賢行状の記述だと、張弘は呂布の刺姦をしていたとあります。
張弘は呂布配下の検察官をやっていたという事なのでしょう。
呂布は袁術に救援要請をしますが、袁術の仲王朝も崩壊状態であり援軍も見込めず、張弘も敗色濃厚だと考えていたはずです。
陳登の家族を救う
広陵太守の陳登の家族が下邳の城内におり呂布の人質になっている様な状態でした。
呂布は陳登の家族が城内にいる事を利用し、陳登に味方する様に要請する事になります。
陳登は人質を取られながらも、呂布に同調しませんでした。
こうした中で、次の記述が存在します。
※正史三国志注釈・先賢行状より
張弘は後難を恐れ、夜中に陳登の弟三人を連れて脱出し陳登の元に走った。
張弘と陳登がどの様な関係なのかは不明ですが、張弘が呂布を裏切り陳登の弟達を連れて、城を脱出したという事なのでしょう。
この後に先賢行状だと、呂布が滅んだ記述に繋がります。
張弘に関して言えば、この後に記録がなくどの様になったのかは不明です。
陳登の方は曹操の呂布討伐が終わると、伏波将軍の位を授けられたとあり、張弘にも相応の褒賞があったのではないかと考えられます。
この一件で陳登は張弘を信頼した様に思いました。
張弘がここで歴史から消えてしまった理由ですが、この後に陳登が匡奇城の戦いで孫策を破るなどしましたが、比較的早い時期に亡くなった事と関係している様に思います。
陳登が華佗の治療を受けながらも亡くなってしまいますが、陳登が仮に長生きして揚州あたりに地盤を築いたとしたら、劉焉や劉璋における龐羲の様な形で重用されたのかも知れません。