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陳登は文武両道の名臣

2023年3月7日

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宮下悠史

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名前陳登(ちんとう) 字:元龍
生没年不明
時代三国志、後漢末期
一族父:陳珪 兄弟:陳応 子:陳粛 
年表195年 広陵太守に任命される
198年 伏波将軍に任命される
画像©コーエーテクモゲームス

陳登は正史三国志や後漢書に登場する人物で、広陵太守や東城太守になった記録があります。

陳登の出身地は徐州下邳国淮浦県です。

正史三国志に陳登の伝は存在しませんが、父親の陳珪と同様に所々に名前を見る事が出来ます。

陳登に関しては、呂布伝の注釈・先賢行状に詳しいと言えます。

陳登は広陵太守となっており、呂布との逸話も残っていますが、陳登の心は呂布には無く朝廷にあった事でしょう。

曹操劉備が陳登を高く評価した話が残っています。

陳登と言えば三国志演義を代表に、文官としてのイメージが強いと感じています。

しかし、実際の陳登は孫策孫権を撃破した記録もあり、剛毅な性格をした文武両道の名臣とも言える人物です。

尚、陳登と華佗には不思議な逸話があり、陳登は病気に苦しみますが、一度は華佗の治療で治りますが、3年後に華佗の予想した通りに亡くなった話があります。

今回は広陵太守や東城太守を務め、名声を得た陳登を解説します。

優れた人物

先賢行状によれば、陳登は誠実でさわやかであり、沈着で思慮深く、優れた計略を胸に秘めていたとあります。

さらに、若年の頃より社会を立て直そうと考えており、民衆を救済する大志を持っていたとあります。

この記述だと、持ち上げすぎにも感じますが、陳登は読書を好み文学の才能もあり、古典や文学作品を極めつくしたと記述されていました。

後に劉備が陳登を高く評価した様に、優れた人間性を持っていたという事なのでしょう。

先賢行状に記述では、陳登は25歳で孝廉に推挙され、東陽県の長に任命されると、老人の面倒を見て孤児を養うなど民衆を労わる政治を行った話があります。

当時は食料不足で悩まされており、この記述が本当であれば陳登は民衆の為の政治を行った事になるでしょう。

徐州牧の陶謙は陳登を高く評価し、上表して典農校尉に任命したとあります。

陳登は典農校尉になると、どの様な産物が、その土地の性質に合っているか調べ上げ、堀を掘って灌漑の利を十分に活用させ、稲が豊かに実り蓄えられました。

先賢行状を見る限りだと、陳登は「かなり出来た人」にも見えます。

正史三国志を見ると袁渙張範、涼茂、国淵らも、その人間性を高く評価されており、陳登も同様の記述があった事になります。

ただし、これらの人物は徳を輝かせた事が書かれていますが、三国志の食料不足の時代に「本当にこんな事が出来たのか?」と懐疑的な見方も存在する事実もあります。

劉備を徐州の主に推す

劉備公孫瓚と離れ、田楷と共に陶謙の救援に向かいました。

後に劉備は田楷の元を去り、陶謙の元に身を寄せますが、陶謙は劉備を豫州刺史に任じ、小沛に駐屯させています。

劉備が陶謙の元に身を寄せた事で、劉備と陳登は交流が出来たのでしょう。

陶謙が亡くなると、劉備は糜竺の要請もあり徐州牧を打診されますが、遠慮し寿春にいる袁術に徐州を治めて貰う様に要請しました。

ここで陳登は袁術の傲慢さを指摘し、劉備が徐州の主となれば春秋五覇と同じ功績を立てる事が出来ると告げます。

さらに、北海太守の孔融も袁術の人間性を問題視し、劉備を徐州の主となる様に要請した事で、劉備は陶謙の後の徐州の主となったわけです。

尚、劉備が徐州牧になる事に対し、陳登や孔融は賛成しましたが、陳羣は劉備の徐州牧就任に反対した話があります。

劉備が徐州の主となった詳細な経緯に関しては、劉備の記事の方で書いたので、そちらを読むようにしてください。

劉備が徐州牧になる事が決まると、陳登は袁紹に使者を派遣し、次の様に述べさせました。

※ちくま学芸文庫正史三国志5巻(30頁から31頁)先主伝・注釈献帝春秋より

「天が災厄をくだし、禍いはわが州まで及び、州将は死去し、民衆には主人がいなくなりました。

奸雄が突如間隙につけこみ、盟主様(諸侯同盟の頭目、袁紹を指す)に寝食を忘れるほどの気苦労をおかけする結果にならないかと恐怖を覚えました。

そこですぐさま協力して元平原の相劉備殿を上にいただいて宗主といたし、広く民衆に頼るべき方がおられることを承知させました。

現在は外からの侵略が相い継ぎ、武装を解く暇もないので、謹んで下吏を派遣し急いで執事に申しあげる次第です」

陳登は袁紹に劉備が徐州の主となった理由を説明したわけです。

袁術と袁紹は同じく汝南袁氏の家柄ですが、ライバルの関係でもあり、徐州の南方にある寿春の袁術を牽制する意味もあり、陳登は袁紹に使者を派遣したのでしょう。

陳登に対し袁紹は劉備は度量が広く立派で信義があると評価し、劉備が徐州の主となるのは、自分の希望にそったものだと答えています。

ただし、劉備は徐州の主となりますが、袁術討伐を行った際に呂布が裏切り曹豹の手引きもあり、張飛が敗れました。

これにより劉備は窮地に陥りますが、最終的には呂布に降伏しています。

呂布が徐州の主となりましたが、陳登は呂布が徐州の主だと認めていなかった事は、後の行動を見れば明らかでしょう。

たたし、呂布は名士と仲良くしたいと考えていた様であり、陳珪や陳登を重用しました。

曹操に内通

袁術韓胤を派遣し、呂布と婚姻関係を結ぼうとしますが、陳登の父親である陳珪が詭弁を用いて破談させました。

この後に、陳珪は陳登を曹操の元に派遣しようとしますが、呂布は首を縦に振らなかったわけです。

しかし、呂布が突如として朝廷から左将軍に任命されると喜び、朝廷に陳登を向かわせる事を了承しました。

呂布の左将軍任命に関しては、陳珪や陳登が曹操に働きかけた結果なのかも知れません。

陳珪、陳登親子にしても、後漢王朝の献帝を擁立する曹操と誼を結びたかったと考え、陳登を都に派遣したい部分もあったのでしょう。

尚、陳登は曹操と面会すると、呂布の武勇は認めながらも、人間性に関しては批判し、呂布に対しては軽蔑していた事も分かります。

陳登は曹操に内通しました。

曹操も陳登を高く評価し、広陵太守としています。

曹操は陳登を広陵太守としましたが、先賢行状によれば内密に軍勢を取りまとめて呂布に対処する様に命じたとあります。

呂布と陳登のやり取りに関しては、呂布の記事の方で詳細は書きました。

この後に袁術配下の張勲が楊奉、韓暹らと徐州を攻撃しますが、陳登は袁術、張勲、楊奉、韓暹の連合が上手く行っていない事を見抜いた話があります。

広陵太守

陳登は広陵太守となり、任地に赴く事となります。

正史三国志の孫破虜討逆伝の注釈・江表伝の記述に従えば、陳登は役所を射陽に設置しました。

広陵は過去に、張超が太守をしており配下に臧洪がおり、董卓打倒が始まった地でもあります。

陳登は広陵では賞罰を明確にし、威光を広く行き渡らせたとあります。

張超や臧洪は広陵をよく治めた話がありますが、陳登もまた広陵を上手に治めたという事なのでしょう。

因みに、海賊行為を行っていた薛州の1万余戸が自ら手を縛り、帰順すると陳登は「こいつらは使える」と述べた話があり、陳登が恩徳だけの人ではなかった事が分かるはずです。

後に、陳登は呂布討伐の際に軍を率いて、曹操に合流しますが、薛州の軍勢の働きは大きかったと感じています。

陳登の教化は1年もしないうちに成果があり、人々は陳登を畏怖し敬愛したとあります。

尚、広陵太守の陳登が、陳矯と徐宣を重用した話があります。

陳矯と徐宣は曹操、曹丕曹叡の三代に仕え陳矯は司徒となり、徐宣は死後に三公の礼で葬られるなど魏で高官となりました。

陳登が尊敬した人

陳登は陳矯を許昌に派遣した話があります。

この時に、陳登は陳矯に次の様に述べました。

※正史三国志 陳矯伝より

陳登「許では私に対する評価が不十分である。

貴方はよく観察してから帰還して欲しい」

この記述を見る限り、陳登は都での評判を気にしていた様であり、何かしらの野心もあったかの様に見えなくもありません。

陳矯は帰還すると「都では陳登が傲慢だとか自惚れていると思われている」とする話をしました。

すると、陳登は次の様に言葉を返しています。

※正史三国志 陳矯伝より

陳登「奥向きが和やかで睦まじく、徳を持ち品行に優れている点では陳元方(陳紀)の兄弟を尊敬している。

淵のごとく清く玉のごとく清らかで礼にかない法がある点では、私は華子魚(華歆)を尊敬している。

品性が清潔で整い悪を憎み、見識、義信がある点で、私は趙元達(趙昱)を尊敬している。

広い見聞と高い記憶力を持ち、人並みはずれ卓絶している点で、私は孔文挙(孔融)を尊敬している。

傑出した雄姿を持ち、王覇の才略が見えている点では、私は劉玄徳(劉備)を尊敬している。

尊敬している者がこれほどいるのに、どうして傲慢になる事があろうか。

余人は小物、どうして問題にする事があろうか」

この記述から陳登は陳紀、華歆、趙昱、孔融、劉備を尊敬していた事が分かるはずです。

後に劉表と劉備の前で許汜が「陳登が傲慢」だとする話をしました。

許汜は陳登の所に行った時に、陳登は寝台で寝て、自分は寝台の下で寝かされた事を恨んでいたわけです。

劉表は困惑しますが、ここで劉備は許汜は名声はあるのに、自分の利益ばかりを考えている事を指摘し、陳登嫌うタイプだったと述べました。

許汜は劉備に面目を潰されますが、劉備は陳登を文武両道で何者も恐れない勇気と志を持っていると高く評価しています。

陳登と劉備は互いを高く評価してはいましたが、陳登は誰に対しても礼を尽くす人物ではなく、相手に価値がないと感じれば、まとも相手をする事も無かったのでしょう。

呂布との戦い

呂布が劉備を破り曹操の元に敗走させると、曹操は夏侯惇を派遣しますが、夏侯惇は呂布の配下の高順に敗れています。

そこで曹操が出陣すると、陳登は下邳で曹操と合流しました。

この時に陳登の三人の弟が下邳の城内にいましたが、機転を利かせた張弘により助けられています。

呂布は魏続、侯成、宋憲の裏切りもあり捕虜となり、呂布は陳宮、高順と共に斬首されました。

曹操は下邳の戦いでの陳登の功績を認め、伏波将軍としています。

伏波将軍は後漢初期に名将馬援が任命された役職でもあり、陳登にとっては非常に名誉なことだったはずです。

匡奇城の戦い

陳登は長江や淮水の流域で人望や名声があり、江南地方の平定を志す様になったとあります。

当時の揚州では孫策劉繇、厳白虎、王朗、許貢、陳瑀を破るなど勢力を拡大させており、孫策と陳登の対立が深まりました。

陳矯伝によれば、郡が孫権に攻められ匡奇が攻められたとあります。

これを見ると陳登の勢力範囲である匡奇に孫権が攻めてきた事になっていますが、この記述は誤りで孫策が正しいとも考えられています。

しかし、正史三国志や先賢行状、江表伝の記述を見るに孫呉の勢力と陳登の間で、匡奇城の戦いがあった事だけは間違いないでしょう。

匡奇城の戦いでは陳登は陳矯を派遣し、曹操からの援軍を呼びこんだだけではなく、巧みな作戦を立てて孫策の軍を破りました。

この戦いで陳登は自ら陣太鼓を打ち鳴らし、万単位の敵を討ち大勝利を挙げた記述があります。

尚、孫策は曹操と袁紹の間で行われた官渡の戦いの時に、許都の襲撃を画策したとされていますが、実際には許都への襲撃ではなく陳登を討ちたかったのではないか?とも考えられています。

孫策は西暦200年に没していますが、陳登を討つために北上した時に、韓当の部下を名乗った許貢の食客に襲われ命を落したとも伝わっています。

東城太守に転任

陳登は広陵太守から東城太守に転任したとあります。

陳登の広陵での政治がよかった事もあり、広陵の官民の中には、陳登の恩徳を慕い郡を抜け出し、老人を背負いついて行った者まで現れたとあります。

そこで、陳登は次の様に述べました。

※先賢行状より

陳登「太守(自分)は、君たちの軍に赴任していた間、頻繁に呉の侵入を招いてしまった。

幸いにして勝利を収める事が出来ただけだ。

君たちは自分が去った後に、立派な主君を持てぬなどと心配する必要はないぞ」

この様に述べて、自分についてきた人々を戻らせた話があります。

陳登が広陵太守から東城太守に転任した理由に関しては、広陵において陳登は大功を上げるなど、強固な基盤を築いていた様にも見受けられます。

さらに、南方に対する野心とも取れる様な記述も見受けられ、曹操に警戒された部分もあるのかも知れません。

それか、当時は曹操は袁紹との戦いが起きており、南方に兵を向ける様に催促する陳登に対し、孫呉との協調を考えて曹操は陳登の配置換えを行った可能性もある様に感じています。

ただし、曹操は孫権と対峙して長江を見ると、陳登の計略を採用しなかった事を後悔したかの様な記述もあります。

曹操は大きな猪(呉)の爪や牙を成長させてしまった事を残念がったとあります。

陳登の最後

正史三国志の華佗伝に、陳登の最後に関する記述が存在します。

華佗伝の記述によると「広陵太守の陳登が病気に掛かった」とする記述があり、陳登が広陵太守の時代に難病に掛かった事が分かります。

華佗は陳登の症状を見ると、薬を作り飲ませました。

陳登は華佗の薬を飲むと、三升ほどの虫を吐き出したとあります。

陳登は華佗のお陰で回復しました。

しかし、華佗は「三年後に病気が再発する」と言ったわけです。

この3年の間に陳登は東城太守に転任し、華佗の言葉通りに病気が再発してしまいました。

陳登は再び病に倒れますが、この時には華佗がおらず、回復する事はなく最後を迎えた話があります。

華佗の虫を吐くなどの記述は、現代で考えればちょっと不思議な感じもしますが、陳登は病死したという事なのでしょう。

陳登は39歳で亡くなった記述がありますが、何年に亡くなったのかは不明です。

西暦204年に夏侯惇が伏波将軍になった記述があり、陳登が亡くなったのは西暦204年よりも前だったのではないか?とも考えられています。

因みに、先賢行状によれば、曹丕が陳登の功績を思い起こし賞賛し、子の陳粛を郎中に任命した話があります。

曹操だけではなく、曹丕にとっても陳登は名臣であり、魏では死後も陳登の名が通っていたのでしょう。

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