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高順は陥陣営と呼ばれた名将

2023年1月29日

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宮下悠史

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名前高順(こうじゅん)
生没年生年不明ー199年
時代後漢末期、三国志
勢力呂布
年表196年 郝萌の乱
画像©コーエーテクモゲームス

高順は陥陣営(かんじんえい)と呼ばれた名将であり、後漢書や正史三国志に登場する人物です。

正史の記録を見る限りだと、高順は呂布配下だった3年ほどしか記録がなく、分かっている事は少ないです。

それでも、高順は精錬潔白な人柄と陥陣営の異名をとる名将ぶりで評価されています。

高順は同じく呂布配下の張遼に比べると、知名度は劣りますが、軍隊を指揮する能力であれば、引けを取らない様な人物でもあります。

三國志演義などでは夏侯惇に一騎打ちで破れる描写もあり、パッとしませんが、史実の高順は董卓配下の徐栄と共に隠れた名将と呼ぶに相応しいと感じました。

今回は呂布配下の中でも屈指の武勇を誇る陥陣営の高順を解説します。

尚、高順は同じく呂布配下の陳宮とは不仲だった話があります。

精錬潔白な人柄

高順ですが、呂布に仕えた経緯などは記録がなく一切分かっていません。

高順は南陽高氏の出身だとか、兗州の名士だったのではないか?と考える人もいますが、高順に対する記録がなく正確な所は不明です。

呂布は董卓王允と共に殺害した後に、袁術の元に行きますが、この時に呂布は数百騎を従えていた話もあり、この中に高順がいたのかも分からない状態だと言えます。

さらに言えば、高順の字すらも分かっておらず、不明な部分はかなり多いです。

高順は正史三国志の記述だと、清廉潔白な人物で威厳もあり酒も飲まず、贈り物を受け取らなかった話があります。

当時は付け届けが普通であり、それを考えると高順の潔白さは、かなりのものだったのでしょう。

しかし、真面目過ぎる故か呂布は高順を重用しなかった話もあります。

いつの時代の真面目一辺倒の人が、気に入られるわけでもないと言う事なのでしょう。

陥陣営

英雄記によると、高順が率いていた兵士は700人ほどだった話があります。

しかし、高順は千人だと称しており、武器、鎧、兜など全て手入れてしてあり、兵はよく鍛えられていました。

高順が敵を攻撃すれば、かならず敵を打ち破った事で「陥陣営」の異名がついた話があります。

陥陣営には「敵を必ず陥落させる者」とする意味があり、高順の強さは際立っていたと言うべきでしょう。

ただし、高順の陥陣営が、どの戦いで効力を発揮したのかは、具体的な記述がありません。

呂布が袁紹の元に行った時に、張燕の黒山賊1万を数十騎で撃破した話があり、この中に陥陣営の精鋭部隊数人と高順がいた可能性もある様に思います。

呂布を諫める

高順は呂布を次の様に諫めていた話があります。

※英雄記より

高順「国を破滅させる者は、忠義の臣下や優れた智謀の士がいなかったわけではありません。

賢者がいたにも関わらず、それらの者を任用しない事が問題なのです。

将軍(呂布)は行動を起こす時に熟慮しておりませんし、直ぐに喜び間違った事をします。

その誤りは数え切れぬ程です」

高順から見て呂布の場当たり的な行動は、自ら破滅に向かっていると言いたかったのでしょう。

高順の主君が古の名君であれば、問題なかったわけですが、呂布は高順の進言を聞く事は出来ずに「煩い奴」と思った可能性もあるはずです。

英雄記にも呂布は高順の忠義は認めていたが、意見を採用する事は出来なかったと記録されています。

高順としても、自分の諫言を呂布は聞き入れられないと知りつつも、諫めていた部分もある様に感じました。

郝萌の乱

呂布は徐州の劉備を頼りますが、劉備が袁術を攻めた隙に、呂布は反旗を翻し徐州の主となります。

行き場を失った劉備は呂布に降伏しました。

こうした中で、196年に何者かが呂布を襲撃し、呂布は急いで高順の陣営に逃げ込む事件が起きています。

高順は呂布に賊の特徴を聞くと「河内の訛りがあった」と言った事で、高順は郝萌が犯人だと特定しました。

高順から見て、日頃から郝萌は不審な動きがあり、警戒していたのでしょう。

高順は兵を率いて役所に突入すると、郝萌方の曹性が寝返り高順に味方しました。

高順の活躍により郝萌の乱は鎮圧する事に成功しますが、曹性は「陳宮と袁術が共謀者です」と述べた話があります。

陳宮曹操の元から離れた事もあり、袁術の窓口にもなっていたのでしょう。

陳宮はこの時に顔を赤らめた事で、多くの者が陳宮と郝萌が結託していたと悟りますが、呂布は大将である事を理由に陳宮を不問としました。

尚、郝萌の乱を鎮圧したのは、高順ですが、高順がどの様な恩賞を貰ったのかは記載が無く、郝萌配下だった曹性が郝萌の兵を率いる事になります。

曹性の恩賞の記録があり、高順の記録がない事から、呂布は高順を冷遇していたと見られる事が多いです。

ただし、呂布は郝萌に襲撃された時に、高順の陣営に逃げており、呂布は高順の能力や人間性を高く評価していたのではないか?と見る向きもあります。

呂布は高順を信頼していたと考える人もいると言う事です。

指揮権を取り上げられる

英雄記によると、郝萌の事件があってから呂布は、さらに高順を疎んじる様になったとあります。

郝萌の事件で呂布を助けたのは、高順ですが、呂布は高順の冷遇を始めたという事です。

呂布は高順の軍勢を取り上げると、呂布の妻の一族である魏続に兵を預けています。

しかし、呂布は戦争になると魏続の兵を高順に預け指揮させるという変則的な体系を取りました。

呂布のやり方は高順に対する嫌がらせの様にも見えますが、高順は最後まで呂布に恨む事は無かったとあります。

ここまで行くと、高順はかなり出来た人だとも言えるでしょう。

尚、呂布が高順の兵を取り上げた理由は、郝萌が謀反した事で人間不信に陥り、縁続きの者しか信用しなくなった為だと伝わっています。

高順を見ていると、不遇の名将でもあったと見て取れます。

臧覇との戦いを諫める

197年に臧覇が蕭建がいる莒を攻撃し攻め落としました。

蕭建は呂布の息が掛かった人物であり、呂布は怒り、自ら騎兵や歩兵を率いて臧覇を攻撃しようと考えます。

高順は呂布が臧覇を攻撃するのに反対であり、次の様に述べて諫めています。

※正史三国志より

高順「将軍(呂布)は董卓を殺害しており、その威光は戎の地まで鳴り響いております。

将軍が鎮座しているだけで、遠近の者達が従うのです。

軽はずみに出陣してはなりませぬ。

出陣して勝つ事が出来なければ名声を失う事になるでしょう」

しかし、呂布は聞き入れる事無く、臧覇を攻撃しました。

臧覇は呂布が暴虐だと感じており、城に籠り防備を固める事になります。

呂布は臧覇を破る事が出来ず、結局は下邳に退きました。

高順の言った通りになったと言うべきでしょう。

尚、臧覇と呂布は和睦した記述もあり、和睦が成立した事で呂布は兵を引いたとも見る事が出来るはずです。

因みに、臧覇は名将と言ってもよい人物であり、陥陣営と呼ばれた高順であっても、手ごわい相手だと認めていたのでしょう。

高順の言葉で「呂布が董卓を殺害した威光~」というくだりがありますが、呂布は天下を敵に回した董卓を殺害した事で、当時では後漢王朝の忠臣とみられていたのではないか?とも考えられています。

劉備と夏侯惇を破る

劉備は呂布に敵対するかの様な不穏な行動を見せる様になり、怪しんだ呂布は中郎将の高順と北地太守の張遼に劉備を攻めさせました。

劉備は単独では高順の攻撃を防げないと考え、曹操に援軍要請しています。

曹操は夏侯惇を派遣しますが、高順と張遼は劉備を破り敗走されています。

さらに、高順は援軍に来た夏侯惇も撃破しました。

劉備と夏侯惇を連続で破る辺りは、高順が名将と言われる由縁だと感じます。

ここで曹操は、自ら軍を率いて呂布討伐に赴きました。

陳宮との不仲

呂布は曹操に攻められると、下邳の城に籠城しました。

これが下邳の戦いです。

呂布は下邳の城を高順と陳宮に任せ、自ら騎兵を率いて曹操軍の糧道を断とうと考えました。

しかし、呂布の妻は次の様に述べています。

呂布の妻「高順と陳宮は不仲だと聞いております。

将軍(呂布)が出陣なされば、高順と陳宮が心を一つにして戦うとは思えません」

呂布の妻は高順と陳宮の仲が上手く行っていない事を理由に、呂布が城の外に出る事に難色を示しました。

呂布も高順と陳宮の仲の悪さを知っており、妻の言葉に従う事になります。

高順と陳宮の仲が悪かった理由ですが、陳宮は曹操の配下でしたが裏切り呂布に鞍替えしています。

さらに、郝萌の乱の時には袁術に通じるなど、陳宮は呂布に対し忠義の臣には見えなかったはずです。

陳宮の行動が高順との不仲に繋がっていたとも考えられます。

しかし、呂布配下の中で軍師とも言える知恵者の陳宮と、武の筆頭である高順の不和は、呂布の勢力が伸び悩む原因にもなっていた事でしょう。

陳宮と高順はお互い優れた部分はあっても、劉邦に仕えた陳平と周勃の様にはなれなかったとも言えます。

高順の最後

高順は呂布や陳宮と共に下邳の城を包囲されました。

呂布が騎兵を率いて打って出ようか悩む中で、曹操は郭嘉荀攸の進言により水攻めを完成させていきます。

こうした中で、呂布配下の魏続、侯成、宋憲らは主戦派の陳宮を捕縛し、曹操に降伏しました。

呂布は信用し高順の兵を預けた魏続に裏切られたわけです。

それでも、高順は最後まで呂布を見捨てませんでした。

この後に、呂布も曹操に降伏し、高順も曹操の捕虜となります。

呂布と陳宮は曹操とのやり取りが残っており最後の姿が描かれていますが、高順はここで亡くなった事しか記述がありません。

陥陣営と呼ばれた名将高順の最後は記録がなく不明です。

高順は口数が少なかった話もあり、クビライに捕らえられた文天祥の様に「死を賜わりたい」と述べただけで、曹操に仕える気もなく処刑されたのかも知れません。

高順の評価

高順が陥陣営と呼ばれた事からも、巧な用兵術を持っていた事は間違いないでしょう。

曹操の配下となれば、かなり活躍出来たのかも知れません。

高順は呂布に忠義を尽くし、最後まで従った忠臣だと考えられる事が多いです。

しかし、資治通鑑を書いた宋の司馬光は陳登は呂布には不忠だったが、漢の王室にとってみれば忠臣だったと述べています。

それに対し、高順は暴虐で節操がない呂布に忠義を尽くしたのは、暴虐に従った事になり、高順は能力はあったが陳登には及ばないと述べました。

高順は名将ではありましたが、仕える人を間違え、節操のない呂布に仕えてしまったのが、敗北の理由だとも指摘されています。

能力があり忠義の臣であっても、仕える人を間違えれば破滅する例でもあると感じました。

個人的には高順が部隊を指揮し、手柄を立てる姿をもっと見てみたかったとも感じています。

尚、魏で最強の武将と言えば張遼の名が挙がりますが、張遼の呂布の配下だった事があり、用兵術は高順に学んだのかも知れません。

呂布の配下としては張遼よりも、高順の方が格上だった事でしょう。

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