張存は荊州南陽郡の出身であり、正史三国志の楊戯伝に掲載されている季漢輔臣賛などに、名前が登場する人物です。
張存ですが、龐統を低く評価しており、劉備の前で口に出してしまった事で免官となった人物でもあります。
張存は策を立てて功績を挙げた様な記録もありますが、空気は読める人ではなかったのかも知れません。
蜀書を見ると、問題児が多い様にも見受けられますが、張存もその中の一人だと言えるでしょう。
尚、張存は季漢輔臣賛の中では、馬良、衛文経、韓士元(韓冉)、殷観、習禎らと共に記録されています。
広漢太守となる
張存ですが、正史三国志に、次の記述が存在します。
※正史三国志より
張存は荊州従事となり、劉備に従い蜀に入り、南方にある雒まで遠征し広漢太守となった。
張存がいつ頃から劉備に仕えたのかは不明ですが、劉備の入蜀に同行し功績を立てた事で広漢太守になったという事でしょう。
尚、季漢輔臣賛に「処仁(張存)は計策を立て」と記録されており、劉備に対して何かしらの策を進言し功績を挙げたのかも知れません。
劉備は劉璋と対立しますが、各地で劉備軍は劉璋軍を圧倒しました。
劉備軍の快進撃の裏には張存の立てた策略により、城を陥落させたなどもあるのかも知れません。
劉備も張存の功績を認め広漢太守に任命したのでしょう。
免官と病死
劉備配下の龐統は劉循と張任が籠る雒城を攻撃しますが、城を落とす事が出来ず、龐統は流れ矢に当たって戦死してしまいました。
龐統は諸葛亮と並び臥竜鳳雛と呼ばれる程の逸材だったわけですが、張存は龐統の事を低く評価していたわけです。
劉備は龐統が戦死した時に、龐統を賛美し、その死を嘆いたわけですが、張存は次の様に述べました。
張存「龐統は忠義を尽くして惜しむべき人物だった事は間違いありません。
しかし、龐統は君臣の道には反しておりました」
張存は龐統の死を悲しむ劉備を逆なでするような事を述べたわけです。
張存の言う「龐統は君臣の道に反した」と言うのは、過去に劉備と龐統が酒の席で、いざこざを起こした事があり、それを指すのかも知れません。
しかし、劉備は龐統の事を笑って許しており、龐統が亡くなる頃には完全に水に流していたのでしょう。
劉備は張存に次の様に述べました。
劉備「龐統は自分の身を殺して仁を成し遂げたのである。
それをお前は問題だとでもいうのか」
この時の劉備の怒りは酷かった様で、張存は免官となってしまいました。
張存は広漢太守に任命されたと思ったら、直ぐに免官になってしまったのでしょう。
それから間もなくして、張存は病死したとあります。
劉備の怒りが余りにも激しかった事で、張存は絶望し発病してしまった可能性もある様に思いました。
尚、張存の話の後に正史三国志は「その実績が伝わっておらず伝を作らなかった」と述べて結びとしています。
張存は劉備の前で発言した言葉は、空気が読めなかったと言えるでしょう。