張任は劉璋に仕えた人物です。
益部耆旧雑記によれば、張任は蜀郡の人であり、代々貧しい家柄であった。
しかし、張任は若い時から剛勇であり、大胆で意思が強かったと記載されています。
張任は役人となり従事となった記録がある事から、劉焉か劉璋により抜擢されたのでしょう。
張任は劉備の入蜀の時くらいしか出番はありませんが、多くの益州の武将が劉備に波打って降伏するなかで、最後まで戦い抜いた人物でもあります。
正史三国志では簡略な記述ですが、三国志演義だと張任は龐統を討ち取るなどの活躍の場もあり、史実よりも劉備軍を苦しめる存在となっています。
今回は史実と考えられる正史三国志と、三国志演義の両方の張任を解説します。
正史三国志の張任
劉備の入蜀
劉璋は益州を治めていましたが、張魯や曹操に脅威を感じていました。
劉璋配下の張松、法正、孟達などは荊州にいる劉備を益州に迎え入れる様に進言したわけです。
張松、法正、孟達らは「劉備に張魯を討伐させてみてはどうか。」と、劉璋に劉備を益州に招く様に要請する事になります。
しかし、張松らは既に劉璋を見限っており、益州の主を劉璋から劉備に変えたいと願っていました。
それに対し王累、黄権、厳顔などは「劉備を益州に入れるのは危険すぎる。」と反対しています。
記録はありませんが、後に敵対している事を考えると、張任も劉備を益州に入れるのは反対だった様に思います。
それか張任は根っからの武人であり、主君の命令に従う事を第一と考えており、それほど危機感を抱いていなかった可能性もあります。
劉璋と劉備の対立
劉備は益州に入り、劉璋と会見を開きます。
この時に、劉備の軍師である龐統は劉璋を捕えてしまう様に、劉備に進言しますが、劉備が聞き入れる事はありませんでした。
劉備は劉璋から物資の援助をしてもらい張魯討伐の為に北上しますが、ゆっくりとした速度で進みます。
それでいて、劉備は孫権や関羽を助ける名目で荊州に帰ろうとしたり、劉璋から物資をさらに要求するなどをしています。
その後に、張松の企みが兄の張粛の密告により露見し、劉璋と劉備の対立が決定的となりました。
劉備は白水関の都督である楊懐を斬り兵権を奪うと黄忠、卓膺、龐統らと共に南下を始め、劉璋打倒に動き出します。
それに対し、劉璋も劉璝、冷苞、張任、鄧賢らを派遣し、涪城で劉備の軍を防がせています。
劉璋配下の鄭度が焦土作戦を進言し、劉璋に持ち掛けますが、却下された話もあります。
圧倒的に不利な劉璋軍
正史三国志によれば劉璝、冷苞、張任、鄧賢らは全て敗れ綿竹に退却したとあります。
劉備は北上する時に、ゆっくりと進み益州の豪族を懐柔した話もあり、勢いは完全に劉備にあったようです。
劉璋は李厳を派遣しますが、李厳に至っては、劉備と戦う前に費観と共に降伏してしまう始末でした。
さらに、劉備は荊州の諸葛亮、張飛、趙雲らを呼び寄せた事で、劉璋に対し圧倒的な優位に立ちます。
諸葛亮、張飛、趙雲らは厳顔を破るなど、益州の各地で勝利を積み上げ、成都を目指しました。
こうした中で、劉璋は劉循や張任を雒城で防がせる事にします。
劉備に雒城を抜かれてしまったら、劉備軍は劉璋がいる成都に到達してしまうわけであり劉循、張任らは必死の防戦をする事になります。
龐統を討ち取る
正史三国志の先主伝によれば、劉備軍は雒城を包囲しますが、1年以上も持ちこたえた話があります。
龐統伝の方では、次の記述があります。
雒県を包囲した。龐統は軍勢を率いて城を攻撃したが、流れ矢に当たり亡くなった。
この記述を見ると、龐統が張任や劉循が籠る雒城攻撃中に亡くなった事が分かります。
これらを考慮して考えると、劉備は雒城攻撃の責任者として、龐統を任命したのでしょう。
しかし、張任や劉循は城を巧みに守り、劉備に降る気も無かった事で、防御に隙が無く龐統を以ってしても苦戦したのが実情に思います。
龐統は何とか城を落とす為に、自ら前線に出て兵を鼓舞しようとした所で、流れ矢に当たってしまったのが実情の様に感じました。
それと同時に、張任らが鉄壁の守を見せた事の証でもあるのでしょう。
知略に優れた龐統であっても、隙が無い張任や劉循には苦戦したと考えるのが妥当だと言えます。
張任が捕らえられる
張任、劉循らは雒城を死守しますが、劉備の後続部隊が続々と訪れ、戦況は苦しくなっていきました。
益部耆旧雑記によれば、次の記述が存在します。
「張任は軍兵を率いて雁橋に出陣したが、戦いに敗れ張任は生け捕りにされた。
先主(劉備)は張任の忠勇を知っており、張任を降伏させる様に軍に命令していた。」
この時には、益州の多くの武将が劉備に降伏しており、張任がどの様な人物なのか劉備は知っていたのでしょう。
劉備は、雒城でも張任の奮戦を目の当たりにし、張任を配下にしたくなった様にも思います。
張任の最後
劉備は捕虜にした張任に対し、降伏して配下になる様に説得したのでしょう。
それに対し、張任は次の様に答えています。
張任「老臣は二人の主に仕える事はない。」
張任は自分の主は、劉璋だけだと宣言し、劉備の配下になる事を拒んだわけです。
張任の言葉には覇気があり、まだまだ戦いたい気持ちもあった様に感じます。
劉備も張任に対し、配下となる様に何度も説得したはずですが、張任は最後まで首を縦に振る事はありませんでした。
張任は寒家の出身にも関わらず、取り立ててくれた劉璋への節義を優先させた事になるでしょう。
劉備は張任を説得する事が出来ず、処刑を決行し張任は命を落としています。
劉備は張任が処刑されると、感嘆し哀惜したと益部耆旧雑記に残っています。
劉備としてみても、張任は惜しい人物であり、潔い最後を嘆き憐れむ気持ちがあったのでしょう。
張任の評価
張任は武勇に優れ、益部耆旧雑記にある様に忠勇の人物だった事は間違いないでしょう。
張任は兵を率いて雁橋に出陣し、劉備に捕らえられますが、張任としては一発逆転の策を狙ったのかも知れません。
この時の益州では、荊州から劉備の援軍は続々と到着しますし、劉璋方の城は落とされ、日に日に不利な状況に陥っています。
こうした中で、張任は何らかの目的があり、雁橋に出陣したのでしょう。
劉備も張任を惜しいと考え、雁橋に罠を張って待ち構えていた様に思います。
張任が自ら兵を率いて雁橋に出陣するのは、張任の勇気を現わし、劉備に降伏しなかったのは張任の忠義を現わしている様に感じます。
それを考えれば、張任が忠勇の人だと言うのは、当たっているはずです。
尚、張任は劉備に降伏を拒んだ時に、自らの事を「老臣」と呼んでいる事で、それなりの年齢だったとされています。
ただし、老臣と述べたのは、自分の身を低くして話しただけであり、実際は老人ではなかったのではないか?とする説もあります。
劉璋は暗愚だと言われますが、張任や王累、黄権を見ていると、幸せな主君だった様にも感じました。
三國志演義の張任
劉璋暗殺を防ぐ
三国志演義では、正史と同様に劉璋は黄権、王累らの諫めも聞かず、劉備を益州に迎え入れてしまいます。
この時に黄権は歯で劉璋の袖を掴み中止させようとし、王累は逆さ吊りとなり劉璋を諫めますが、劉璋は聞き入れずに黄権らは間違っていると述べます。
劉璋に対し劉璝、冷苞、張任、鄧賢ら4人は、劉備を益州に入れるのは危険すぎると反対の意思を示しました。
しかし、劉璋は納得せず、劉備と会見を行います。
劉備は劉璋を殺める気はありませんでしたが、劉備配下の龐統や法正は劉璋を暗殺してしまおうと考えていたわけです。
龐統と法正は、魏延に剣舞を舞う様に命じました。
龐統、法正は劉璋の隙を見て、魏延に劉璋を暗殺してしまえと命じます。
魏延の動きに対し、張任は危機感を覚え、自分も剣舞を舞うと言い出します。
張任は劉璋を守り、隙があれば劉備を暗殺しようと考えたのでしょう。
これに対し、龐統と法正は劉封に目配せをし、劉封も剣舞を舞うと、劉璋配下の劉璝、冷苞、鄧賢も剣舞に加わる事になります。
場の異様な空気を察した劉備により、剣舞は中止となり、劉備は兵を率いて張魯討伐に向かいました。
落鳳坡
劉備は張魯討伐に向かいますが、結局は劉璋と対立し、劉璋がいる成都を目指す事になります。
涪城が龐統の計略により陥落すると、劉璋は慌てますが、張任は自ら出陣を志願し落鳳坡に向かいました。
落鳳坡は細い道であり、ここに張任は伏兵を仕掛けたわけです。
張任は劉備は的盧という白馬に乗っており、白馬が通り過ぎたら一斉に弓矢を射撃する様に命じています。
この時に、たまたま龐統は劉備から的盧を借りており、龐統が落鳳坡を通り過ぎると、張任は弓矢での一斉射撃を行い、龐統は弓矢の的となり命を落としました。
三國志演義では龐統を討ち取ったのは、張任となっています。
龐統を討ち取った張任は勢いに乗りますが、劉備軍の黄忠と魏延が何とか踏みとどまります。
関平が荊州に向かい諸葛亮に龐統の死を知らせると、関羽を荊州に残し諸葛亮、張飛、趙雲らが兵を率いてし益州に向かいます。
張任の計略
龐統を討った張任は劉備が籠る涪城を包囲します。
張任の包囲が長引いた頃に、黄忠は劉備に夜襲を仕掛ける様に進言し、劉備、黄忠、魏延は張任の陣に夜襲を仕掛けました。
張任は夜襲を受けると、雒城まで退きます。
しかし、これは張任の策略だったわけです。
劉備、黄忠、魏延は雒城を攻撃しますが、張任は劉備軍が疲れた所を見るや、呉蘭、雷銅らと共に兵を率いて劉備軍を急襲しました。
張任は呉蘭、雷銅に黄忠、魏延の相手をさせ、自らは劉備を捕えるべく出陣しています。
張任は劉備を追い詰めますが、張飛と厳顔が劉備の援軍に現れた事で、張任は兵を引いています。
この時に、張任配下の呉蘭と雷銅は黄忠と魏延に夢中になり過ぎて、援軍に来た劉備と張飛により退路を断たれ劉備に降伏しました。
諸葛亮の計略で捕えられる
劉備は諸葛亮とも合流し、劉璋配下の呉懿を捕えた事で、雒城の情報を聞き出しました。
諸葛亮は張任を金雁橋に誘き出し黄忠、魏延を伏兵とし、最後に張飛に張任を捕えさせる策を考え出します。
張任は諸葛亮の罠にはまり、逃げる諸葛亮を追いかけ、金雁橋まで行くと劉備、趙雲、厳顔らの軍勢と戦う事になります。
張任は罠に嵌った事を悟りますが、伏兵の黄忠や魏延が現れ、最後は張飛により張任は生け捕られています。
張任の死
劉備は捕虜になった張任に向かい、次の様に述べています。
劉備「我が威風の前に、蜀の諸将は立ちどころに帰順した。
其方はなぜ、さっさと降伏しなかったのじゃ。」
劉備は張任がすぐに降伏しなかった事を責めたわけです。
しかし、張任も負けじと、次の様に言い返す事になります。
張任「忠義の臣下は二人の主に仕える事はないのだ。」
この時の、張任は目を怒らせて劉備を怒鳴りつけたとあります。
劉備は次の様に答えます。
劉備「其方は天の時をわきまえてはおらぬ。
降伏すれば命は助けてやる。」
劉備は張任を殺すに忍びないと思ったわけですが、張任は悪態をつき次の様に答えています。
張任「今日はどれだけ時が立とうが降伏する事はない。
早く我が首を刎ねろ。」
劉備は張任を生かしておきたいと考えますが、諸葛亮は張任の名を傷つけぬ様にと考え、張任の処刑は決行される事になります。
これにより、張任は命を落としました。
正史三国志では簡略な記述しかありませんが、実際には三国演義の様なやり取りが、劉備と張任の間であった様に思います。
張任を讃える詩
三國志演義では、張任を讃える詩が掲載されています。
烈士 豈に甘んじて二主に従わんや。
張君が忠勇 死するもなお生けるが如し。
高く明らかなる事 正に天辺の月の如く。
夜々 光を流して雒城を照らす。
張任を讃える詩は後世の人が、張任の行いを褒め称えた事で生まれたのでしょう。
益州で多くの者が劉璋を裏切る中で、張任が劉璋の為に奮戦した行為は、人々の心に刻まれる事になった様に思います。
張任は忠義により、優れた人物だと認識された様に思います。
正史三国志以上に、三国志演義では活躍の場が増えているのは、張任人気の表れにも感じました。
参考文献 ちくま学芸文庫・正史三国志5巻先主伝/龐統伝 岩波文庫 完訳三国志5
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三国志14 | 統率85 | 武力84 | 知力76 | 政治59 | 魅力76 |
史実の龐統の攻撃から1年以上も雒城を守り抜いた事で統率力が高い設定となっており、魏延の剣舞から劉璋を守ろうと剣舞を踊った事で武力も高くなっているのでしょう。
政治が比較的低めになっているのは、政治の実績がなく、張任を武骨な人間として演出したかったからのように感じます。
三国志のゲームでは張任は仕える存在とも言えるでしょう。