三国志

習禎(しゅうてい)は洒脱で高い名声があった

2022年8月13日

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名前習禎(しゅうてい) 字:文祥
生没年不明
時代後漢末期、三国志
勢力劉備
コメント子孫に習鑿歯がいる

習禎は蜀に仕えた武将であり、正史三国志の楊戯伝にある「季漢輔臣賛」や襄陽記に名前が存在します。

習禎は荊州の襄陽の出身だと記録されています。

習禎に関しての実績は伝わっていませんが、龐統に次ぎ馬良よりも上の名声を持っていた話があります。

それを考えると、習禎はかなり高い名声を持っていたのでしょう。

尚、習禎の妹が龐林に嫁いでいますが、襄陽は魏の領内だった事もあり、離れ離れとなり会う事は出来なかった様に感じます。

因みに、習禎の子に習忠、孫に習隆がおり、襄陽記や漢晋春秋を著した習鑿歯は、習禎の子孫となります。

ただし、襄陽記には先祖であるはずの習禎に関して「実績が伝わっていない」などと書かれている状態です。

妹が龐林に嫁ぐ

襄陽記に習禎の人柄に関する記述があり、習禎は洒脱で議論は巧み、龐統に次ぎ馬良よりも上の名声があったと記録されています。

上記の事を考えると、習禎はさっぱりとした人間で、仕事もそつなくこなしたのでしょう。

季漢輔臣賛には馬良、衛文経、韓士元張存、殷観と共に記載されています。

正史三国志の龐統伝の注釈・襄陽記によれば、習禎の妹は同郷の龐林に嫁いだとあります。

龐林は龐統の弟です。

208年に劉表が亡くなると、曹操が南下し劉琮が降伏した事で、荊州北部の襄陽は曹操の支配下に組み込まれました。

この時に習禎がどの様な行動を取ったのかは不明ですが、曹操に従わなかった事は間違いないでしょう。

習禎は何処かのタイミングで劉備に仕える事になります。

習禎が劉備と共に南下し長坂の戦いを潜り抜けたのか、龐統の様に赤壁の戦い後に劉備の配下になったのかは不明です。

しかし、習禎の妹は曹操の領内で暮らしていた話があり、習禎とその妹は離れ離れになってしまったのでしょう。

習禎の妹と旦那の龐林は、夷陵の戦い後に龐林が黄権と共に魏に投降した事で、再開した話がありますが、習禎は妹とは生涯会う事が無かった可能性もあります。

龐林は魏に移りますが、習禎は龐統の子の龐宏と共に蜀に残ったと考えるべきでしょう。

劉備に従う

劉備は劉璋に招かれて益州に入りますが、劉備の入蜀に習禎が従軍した話があります。

劉備の入蜀に関しては、龐統は戦死しましたが、各地で劉備軍が劉璋の軍を圧倒しており、習禎も順調に手柄を立てたとも考えられます。

劉備の入蜀後に習禎は雒県・郫県の県令を経て広漢太守となります。

広漢太守には許靖や張粛、鄧芝何祗なども任命された話がありますが、習禎がいつごろ広漢太守になったのかは不明です。

襄陽記にも「習禎の実績は伝わっていない」とあり、いつ亡くなったのか?など不明な部分が多いと言えるでしょう。

しかし、習禎は名士層の人間でもあり、家柄もよく名声があった記録があり、優れた人物だと認識されていた様に思います。

龐統よりは下ですが、馬氏の五常の中でも最も優秀とされ白眉の異名を取る、馬良よりも高い名声があったというのは評価ポイントになるはずです。

季漢輔臣賛にも善良で、楚の地の優れた人物であったと記録されています。

習禎の能力値

三国志14統率33武力29知力67政治73魅力69

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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