韓冉は正史三国志の先主伝の注釈「典略」や「魏書」に名前が掲載されている人物です。
正史三国志の本文には、韓冉の名前がありません。
韓冉は曹操が亡くなった時に、劉備の命令で曹操の弔問に派遣されました。
しかし、魏書によれば曹丕に斬られたとあり、曹丕を逆なでして命を落とした様な記述があります。
それに対して、典略では斬られた記述が無く、劉備が最後に帝位に就いたと書かれている状態です。
尚、韓冉と季漢輔臣賛に登場する韓士元は同一人物とする説もあります。
今回は季漢輔臣賛に登場する韓士元に関する記述も合わせて紹介します。
魏書の韓冉
正史三国志の注釈・魏書によれば、劉備は曹操が亡くなった事を知ると、韓冉を派遣して弔問させたとあります。
この時に劉備は韓冉に香奠を持たせるなど、最大限の礼を尽くしました。
魏では曹操が亡くなると、曹丕が後継者になっていましたが、劉備が曹操の喪を利用して誼を求めるやり方に不快感を覚えます。
曹丕は劉備を憎み、劉備が派遣した韓冉に対し、荊州刺史に命じて韓冉を斬らせ、使者の往来を断ったとあります。
魏書の記述だと韓冉は、曹丕の命令により斬られた事になっています。
尚、劉備が韓冉を魏に派遣したのは、曹操が亡くなった事で魏の領内がどの様になっているのか?や献帝がどの様に扱われているのか?などを調べる偵察だったとする説もあります。
他にも、劉備は曹操に対しライバルとして敬意を表しており、韓冉を派遣して曹操への礼を尽くしたのではないか?とする説もあります。
曹操も劉備も名目上は後漢の臣下であり、劉備は最高権力者であった曹操への礼として、韓冉を派遣したとも考えられるはずです。
この辺りは劉備本人しか分からない部分でもあり、謎を解くのは極めて難しいと言えます。
典略の韓冉
典略にも劉備は軍謀掾の韓冉を派遣し、文書を持たせて曹操の弔問に向かわせた話があります。
劉備は韓冉に錦の布を持たせ合わせて送りました。
典略によると韓冉は病気と称し、上庸に留まったとあります。
上庸は過去には劉備の支配地域でしたが、孟達が魏に寝返った時に、魏の領地となっていたはずです。
それを考えると、韓冉は魏の領内には入りましたが、都に行こうとしなかった事になります。
韓冉の代わりに上庸の役人が、劉備の文書を届けました。
この時に、禅譲が起こり献帝は曹丕に帝位を譲っています。
曹丕は韓冉に返答の詔勅を出し、招き寄せました。
典略だと韓冉が斬られたなどの記述は存在しません。
この後に、劉備は曹丕の返事を受け取り、帝位に就いたとあります。
ただし、曹丕がどの様な返事を劉備に書いたのは不明です。
しかし、自らが禅譲により皇帝になった事は、曹丕の返書には書かれたいたのでしょう。
尚、劉備の元に曹丕の返書を戻したのが、韓冉だったのかは記載が無く分からない状態です。
魏書の記述に従えば、韓冉は曹丕に招かれた後に、斬られ別の者が劉備に返書を届けたとするのが妥当だと言えます。
季漢輔臣賛の記述
楊戯の季漢輔臣賛に韓士元なる人物の事が記載されており、これが韓冉だったのではないか?とも考えられています。
季漢輔臣賛では馬良、衛文経、殷観、張存、習禎らと共に記載されています。
季漢輔臣賛には、次の記述が存在します。
※季漢輔臣賛の記述
士元は折り目ただしい言葉を吐いた
上記の記述を考えると、韓冉は礼に則った言葉を述べたという事になるのでしょう。
それを考えると、曹丕には斬られてしまった可能性がありますが、使者としてはうってつけの人物だったのかも知れません。
尚、季漢輔臣賛には韓士元の名前、事跡、出身地は伝わっていないとあります。
韓士元の事跡が伝わっていない事を考えると、韓冉と韓士元は別人という事になります。