春秋戦国時代

趙襄子は三晋の分裂を決定づけた

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宮下悠史

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名前趙襄子
姓・諱趙無恤
別名趙孟
時代春秋戦国時代
年表紀元前455年ー紀元前453年 晋陽の戦い
一族父:趙鞅 兄弟:伯魯趙桓子? 配偶者:空同氏の娘
コメント智伯を滅ぼした。

趙襄子は春秋戦国時代の当主です。

本名は趙無恤であり、趙孟と呼ばれる事もあります。

父親の趙鞅は最初は趙伯魯を後継者にしていましたが、姑布子卿の言葉もあり、趙無恤(趙襄子)に代えました。

趙襄子は当主になると代を滅ぼし、晋陽の戦いでは張孟談の活躍もあり、智伯を滅ぼし三晋()の最大勢力となります。

晋陽の戦いで趙襄子は勝利した事で、三晋の分裂を決定づけたとも言えるでしょう。

それと同時に、晋陽の戦いが起きた紀元前453年を、春秋時代と戦国時代の分け目だと考える専門家も多いです。

趙襄子は兄の伯魯に恩を感じており、自らの子を後継者とせず、伯魯の孫の趙浣(趙の献侯)を後継者としました。

兄の子を後継者に指名する辺りは、水戸光圀と重なる部分もある様に感じています。

太子となる

趙無恤の人相

趙無恤の母親の身分は低く本来であれば、太子になれる様な人ではありませんでした。

実際に、趙鞅は伯魯を太子に指名していたわけです。

趙鞅が姑布子卿に子供たちの人相を見て貰う事がありました。

姑布子卿は趙鞅の子を見て貰いますが「将軍になれる方がいません」と述べています。

趙無恤は母親の身分が低く「眼中にない」と言わんばかりに、趙鞅は趙無恤を呼ばなかったのでしょう。

趙鞅は「将軍になれる方がいない」と言われると心配しますが、姑布子卿は「趙鞅にそっくりな人物を見た」と言い、趙無恤が呼ばれる事になります。

姑布子卿が趙無恤を見ると「この方こそは将軍になれます」と絶賛したわけです。

姑布子卿の言葉が趙鞅に響く事になります。

この辺りから、趙鞅も「趙無恤を後継者にした方がよいのかも知れない」と考える様になったのでしょう。

常山の符

趙鞅は子供たちを集めて議論をさせてみると、趙無恤が最も賢い事が分かりました。

さらに「趙鞅は常山の頂きに宝の符を隠した」と言い、子供たちに探しに行かせました。

趙鞅の他の子たちは常山の頂上に行きますが、何も見つける事が出来なかったわけです。

しかし、趙無恤だけは「符を見つけた」と述べると「常山の頂上から代を見ましたが、代を取る事が出来ます」と告げました。

趙鞅は趙無恤の賢さを知り太子の伯魯を廃し、趙無恤を後継者に指名する事になります。

後継者の座を追われた伯魯ですが、野心を持たず弟の趙無恤を補佐する事に徹したわけです。

こうした事もあり、趙無恤は兄の伯魯に恩を感じる事になります。

趙無恤と智伯の確執

智伯が趙襄子を侮辱

春秋左氏伝によると紀元前468年に智伯が鄭を攻撃した話があります。

智伯はの正卿であり、趙襄子(趙無恤)も従軍していました。

鄭の城門を攻撃する時に、智伯は「先に行くようにせよ」と趙襄子に命令しますが、趙襄子は「殿(智伯)がおりますのに」と応えて、命令に従わなかったわけです。

これを聞いた智伯は趙襄子を「顔もよくないし勇気もないのか、なんでこんな奴が趙氏の後継ぎなのだ」と侮辱する発言をしました。

趙襄子は「恥を忍べるからです。趙氏の一族を損なわない様に願っております」と返答しますが、智伯は趙襄子を嫌悪する事になります。

趙襄子も智伯を嫌悪し「この15年後にと共に智伯を滅ぼした」とあります。

尚、紀元前468年に春秋左氏伝は途切れており、この記述が最期の逸話となっています。

趙襄子と智伯が互いを嫌悪

史記の趙世家によると晋の出公の11年(紀元前464年)に、智伯が鄭を討ったとあります。

史記の記述だと趙鞅が病んでいた事で、趙襄子が代わりに兵を率いて智伯に合流し鄭を攻めた事になっています。

の軍は鄭を包囲しますが、この時に智伯が酒に酔い趙襄子に酒を浴びせた話があります。

趙襄子の家来は憤慨し「死んで恥をすすぎたい」と述べますが、趙襄子は「我が君(趙鞅)が、私を後継者にしたのは恥を忍べる人だと思ったからである」と制止しました。

ここでも趙襄子は我慢しており「恥を忍べる」と述べた事になっています。

しかし、史記の趙世家では「心の中では智伯を嫌悪していた」とあります。

史記では戦いが終わると、智伯がの後継者を代える様に、趙鞅に言いますが、趙鞅が許さなかった話があります。

春秋左氏伝では趙襄子と智伯の確執がありありと描かれているわけです。

ただし、趙鞅は紀元前476年に死去しており、それを考えると智伯が鄭を攻めた時には、既に亡くなっていた事になります。

こうした事情もあり、趙襄子と智伯の確執が起きた事件に関しては、創作の可能性もあります。

趙襄子と呉王夫差

史記によると趙襄子の元年(紀元前475年)に越が呉を囲んだとあります。

趙襄子は喪中でしたが、食膳をさらに粗末なものに代えました。

趙襄子は家臣の楚隆を呉王夫差の元に派遣しています。

楚隆は呉王夫差を包囲する越の軍に赴き、句践とも交渉を行い、呉王夫差の元まで辿り着き慰問しました。

趙襄子は呉王夫差と面識はありませんでしたが、黄池の会で父親の趙鞅と呉王夫差が誓約を行っており、気に掛けていたわけです。

しかし、呉は紀元前473年に滅亡しました。

代を滅ぼす

趙襄子の姉は代王に嫁いでいました。

趙襄子は喪に服していましたが、この期間に代王を夏屋山に招待する事になります。

代王は義理の弟である趙襄子の招きに応じ、夏屋山に向かいました。

宴が始まりますが、趙襄子は料理人の雒に命じて、代王を殺害させ、その場にいた代の者達を皆殺しにした上で、一気に代を平定してしまいました。

過去に趙襄子は「代を取れる」と言いましたが、即位すると一気に平定してしまったと言えるでしょう。

趙襄子の姉は代王の死を深く悲しみ自刃しており、これが摩笄山の話となっています。

尚、過去に趙襄子が常山で代を見た時に「代を取れる」と述べましたが、趙襄子の姉が代王の元に嫁いでおり、代王の無防備な様見て「代を取る事が出来る」と述べたのかも知れません。

趙襄子は代には伯魯の子の子周(代の成君)を封じました。

趙襄子と晋陽の戦い

の正卿の智伯はに土地を要求すると、魏桓子韓康子趙葭段規の進言により土地を割譲しました。

趙襄子も土地の割譲を要求されますが、応じなかった事で晋陽の戦いが勃発する事になります。

晋陽の戦いでは智伯が汾水を使って水攻めにした事で、三版を残して城は水没したとあります。

晋陽の戦いは紀元前455年に始まりましたが、紀元前453年になった頃には、晋陽の城内では飢餓に苦しみ将兵の心は乱れ礼の心も喪失したと言います。

ただし、晋陽の城内では高赫だけが礼の心を失わなかったとあります。

趙襄子も弱気になりますが、張孟談が使者となり、魏桓子と韓康子の元まで行き寝返りを約束させました。

智伯の配下の智過絺疵は魏と韓が裏切ると進言しますが、却下された事で戦場を離脱する事になります。

趙襄子は魏桓子と韓康子に日時を示し合わせ、智伯を攻撃し滅ぼしました。

史記には高赫を恩賞の第一とした話があります。

尚、晋陽の戦いの後に、趙襄子が予譲に命を狙われた話は、史記の刺客列伝にも記録されており有名です。

趙が強大となる

晋陽の戦いの後に、史記には次の記述が存在しています。

※史記 趙世家より

趙は北は代を領有し、南は智氏の地を併合し、韓や魏よりも強大となった。

三神を百邑の地に祀り、原過に霍の太山の祀りを司らせた。

趙襄子が智伯を滅ぼし強大になった事が書かれています。

戦国策では智伯の土地を分割した時に、が10城多く貰った話も残っています。

晋陽の戦いの後に、趙はをも凌ぐ程の勢力となっていたというべきでしょう。

その後の趙襄子

智伯の土地を分割した後に、趙襄子がどの様な行動をしたのかは不明な点が多いです。

晋の正卿は智伯が務めていましたが、晋陽の戦いが終わると趙襄子が正卿になったと考えられています。

晋の国内では晋陽の役の翌年である紀元前452年に、晋の出公が出奔して亡くなる事件がありました。

智氏の領地をで分割してしまった事で、晋の出公は怒って出奔してしまったのでしょう。

晋の哀公が立ちますが、正卿の趙襄子が中心となり、擁立したと考えられています。

の正卿になった趙襄子ですが、晋陽の戦いの後に戦争を行ったなどの記録もありません。

一つの説として、趙襄子は過去に代を制圧した様に、中原進出は考えず、北方への進出を考えていたのではないかとされています。

趙襄子が後に西戎とも考えられている空同氏の娘を娶っている事からも、北方進出を目指した可能性が高いのではないでしょうか。

晋の正卿である趙襄子が正卿としての役目を果たさず、北方への進出を考えた事で、趙、魏、韓の君主は晋の朝廷には参加しなくなり、それぞれの領地で暮らす様になったとも考えられています。

趙襄子が正卿として政治力を発揮しなかった事で、三晋は分裂の方向に向かいました。

過去に姑布子卿が趙襄子の人相を見て「将軍になれる」と太鼓判を押しますが、政治家にはなれなかったとみる事も出来ます。

趙襄子の後継者問題

先にも述べた様に、趙襄子は空同氏の娘を娶り、5人の子が生まれました。

しかし、趙襄子は自分の子を後継者にするつもりはなく、兄の伯魯の子にの当主を継がせようと考えたわけです。

趙襄子が西戎ともされる空同氏の娘を娶り、妻に名門の子女を選ばなかったのは、自らの子を後継者にするつもりが無かったからなのかも知れません。

第一候補が代の成君だったわけですが、趙襄子よりも先に亡くなってしまった事で、代の成君の子の趙浣(趙の献侯)を太子に立てました。

趙襄子が亡くなると、趙浣が立ちますが趙桓子が代を本拠地として立つ事になります。

最終的に、趙襄子の遺志の通りに趙の献侯に位が回って行きましたが、この間にの正卿は魏の文侯となりました。

趙襄子の死後に勢力を伸ばしたのは、趙ではなくだったと言えるでしょう。

先代:趙鞅趙襄子次代:献侯

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