仲哀天皇は日本の第14代天皇であり、成務天皇の後継者となります。
仲哀天皇の父親は日本武尊であり、母親は両道入姫命です。
母親の母親は両道入姫命は垂仁天皇の娘となります。
成務天皇には子が無く、日本武尊は各地を征伐し功績が大きかったのに天皇になる事が出来なかった為、子の仲哀天皇が天皇になったとも考えられています。
仲哀天皇は容姿に優れ身長は十尺あったと記録されています。
日本書紀の記録が正しければ、仲哀天皇は現在でも高身長の部類に入るはずです。
尚、仲哀天皇の妻が神功皇后であり、功績で言えば仲哀天皇よりも神功皇后の方が高いと言えるでしょう。
今回は神の怒りにより崩御してしまった悲劇の天皇でもある仲哀天皇を解説します。
個人的には仲哀天皇の崩御は非常に謎が多いと考えています。
成務天皇の崩御
仲哀天皇は成務天皇の48年に皇太子になったとあります。
この時に仲哀天皇は31歳だったと伝わっています。
成務天皇が崩御すると、狭城盾列池後陵に葬り仲哀天皇が天皇に即位し、母親の両道入姫命を皇太后と呼びました。
仲哀天皇の母親である両道入姫命は、日本武尊が天皇になっていなかった事で皇后とは呼ばれていませんが、仲哀天皇が天皇になった事で皇太后になりました。
白鳥を奪われる
成務天皇は即位すると、群臣らに次の様に詔しました。
※日本書紀より
仲哀天皇「自分はまだ20歳にもならぬ時に、父の王は亡くなり、魂は白鳥となり天に昇っていったのである。
慕い想う心はいつもある。
白鳥を陵の周りの池で飼うようにし、その白鳥を見て父を偲ぶ心を慰めたいと思う」
日本武尊の魂が白鳥になったとする話があり、仲哀天皇は白鳥を求めたのでしょう。
仲哀天皇は諸国に布令を出し、白鳥を献上させる事になります。
越国から四羽の白鳥が献上されましたが、弟の蘆髪蒲見別王が奪ってしまいました。
蘆髪蒲見別王の行動は明らかに無礼であり、仲哀天皇は蘆髪蒲見別王に兵を向けて滅ぼしています。
蘆髪蒲見別王は仲哀天皇の異母弟とあり、兄弟間で何らかの争いがあった様にも感じています。
気長足姫尊が皇后となる
仲哀天皇は彦人大兄の娘・大中媛を妃としていましたが、仲哀天皇の2年に気長足姫尊を皇后にしたとあります。
皇后になった気長足姫尊が神功皇后と呼ばれる事になります。
大中媛は麛坂皇子と忍熊皇子を生み、仲哀天皇は来熊皇子の祖である大酒主の女、弟媛を娶り誉屋別皇子を生んだとあります。
この時点で仲哀天皇には子はいましたが、自らの後継者となる応神天皇はまだ生まれてはいません。
この事が原因で後に後継者争いが勃発する事になります。
活動的な仲哀天皇
仲哀天皇は敦賀に行き行宮を建てて住む事になります。
敦賀の行宮を笥飯宮と呼んだと、日本書紀に記述があります。
この笥飯宮が現在の氣比神宮であり福井県にあります。
氣比神宮の本殿の御祭神は伊奢沙別命、仲哀天皇、神功皇后となっています。
さらに、仲哀天皇は「その月に淡路の屯倉を定めた」とあり、淡路を天皇家の直轄領にしたという事なのでしょう。
淡路島には屯倉神社がありますが、現在では跡地に石碑が立っている程度です。
仲哀天皇は神功皇后を敦賀に残し、自らは南海道を巡幸しました。
この時に仲哀天皇は二、三人の卿と官人数百人で紀伊に向かい徳勒津宮を住まいとしました。
これが仲哀天皇の2年の事であり、仲哀天皇は即位して以来、精力的に動いている事が分かるはずです。
それと同時に仲哀天皇はめまぐるしく動いている事もあり、決まった都を定めてもいません。
熊襲討伐に向かう
神功皇后を呼び寄せる
仲哀天皇が紀伊にいる時に、熊襲が貢物を贈らず叛く事になります。
熊襲は仲哀天皇の父親である日本武尊や景行天皇が討伐を行っていますが、大和王権の本拠地である畿内からは遠く反旗を翻したのでしょう。
大和王権は豪族を服従させれば危害を加える事無く、その地に残した事で背かれやすかったとする指摘もあります。
仲哀天皇は熊襲討伐を行う為に、穴戸(山口県)に向かいました。
さらに、仲哀天皇は神功皇后に使者を出し、次の様に述べています。
※日本書紀より
すぐ近くの港から出発し穴戸で会おう。
仲哀天皇は神功皇后も熊襲討伐に呼び寄せたわけです。
渟田門の酒
仲哀天皇は豊浦津(山口県豊浦)に泊まりました。
神功皇后は敦賀から出発し、渟田門まで来ると船上で食事をしました。
神功皇后が食事を始めると沢山の鯛が船の周りに集まったと言います。
集まった鯛に神功皇后が酒を注ぐと、鯛は酒に酔い浮かんできました。
鯛が浮かび上がった事で漁師たちは大漁を得る事が出来て非常に喜んだと言います。
漁師たちは「聖王(神功皇后)から頂いた魚だ」と述べた話しもあります。
渟田門の魚が6月になると、口をパクパクとさせ酔った様に浮かび上がってくるのは、この話に由来すると言います。
神功皇后の酒の話は真実だとは思えませんが、仲哀天皇に比べて、神功皇后の方が神話的な話が多く伝わっているのが現状です。
神功皇后の一行も豊浦津に到着し、ここで神功皇后は願いが叶うという如意の珠を海から拾った話があります。
神功皇后も穴戸に到着し、ここで仲哀天皇と合流したのでしょう。
宮室を穴戸に建て、ここが穴戸豊浦宮と呼ばれる事になります。
熊鰐の献上仏
仲哀天皇は即位8年目に筑紫に到着したとあります。
当時の日本は春秋歴を使っていたなど、歴が現代とは違っていた様ではありますが、熊襲が即位2年目で乱を起こし、九州の筑紫に到着したのに6年も掛かった事になるはずです。
これを考えると、かなり時間を掛けて準備し、万全の体制で熊襲討伐に望んだとみる事も出来るはずです。
仲哀天皇は筑紫に到着しますが、岡県主の祖である熊鰐が天皇が来たと聞きつけました。
ここで熊鰐は十握剣を持つ等の立派な服装で仲哀天皇を迎える事になります。
熊鰐は御料の魚や塩を取る区域を献上し、次の様に仲哀天皇は述べました。
※日本書紀より
仲哀天皇「穴戸より向津野大済までを東門とし、名護屋大済を西門とし、没利島、阿閉島を御島とし、栄島を割いて御殿とする。
坂見の海を塩地としたい」
大和朝廷は九州での支配を固めて行ったと見る事が出来るはずです。
進まぬ船
熊鰐が海路の案内を行い山鹿岬から岡浦に入りますが、入り口まで行くと船が前に進まなくなりました。
仲哀天皇は熊鰐に次の様に訪ねています。
仲哀天皇「熊鰐は清らかな心を持っているのに、なぜ船が前に行かなくなってしまったのであろう」
熊鰐は次の様に答えました。
熊鰐「船が前に進まないのは、私の罪ではありません。
この浦には男女の二神がおり、男神を大倉主、女神を莵夫羅媛と言います。
この神の御心に違いありません」
仲哀天皇は熊鰐の意を悟り、お祈りをして、舵取りの倭国莵田の伊賀彦を祝として祀らせました。
すると船は前に進んだとあります。
神功皇后の船
仲哀天皇と神功皇后は別の船で移動していましたが、洞海に行くと潮が引いてしまい動く事が出来なくなります。
ここで熊鰐が神功皇后の元まで迎えに行きました。
熊鰐は船が動かない事を恐れ魚池や鳥池を作り、魚や鳥を集める事にします。
神功皇后は魚や鳥を見ると漸く和み、怒りの心が解けたと言います。
潮が満ちて来ると、神功皇后の一行は岡津で泊まりました。
五十迹手
仲哀天皇がやって来る事を筑紫の伊都県主の先祖五十迹手が仲哀天皇を迎えました。
この時の五十迹手は八尺瓊、白銅鏡、十握剣を身に着け立派な格好で仲哀天皇に目通りした話があります。
穴戸の彦島で会うと、五十迹手は次の様に述べました。
※日本書紀より
五十迹手「手前がこれらの物を奉るのは、天皇が八尺瓊の様に上手に天下を治め、白銅鏡の様に山川や海をご覧いただき、十握剣を握り天下を平定して貰いたいからでございます」
仲哀天皇は五十迹手を褒め「伊蘇志」と述べたとあります。
これにより五十迹手の本国を伊蘇国と言い、現在の伊都の事だと言います。
仲哀天皇の一行は灘県に到着し、橿日宮を造営しました。
九州の勢力が続々と大和朝廷に忠誠を誓ったと見る事も出来るはずです。
仲哀天皇の最後
神を怒らせた天皇
仲哀天皇の最後に関しては、日本書紀よりも古事記の方が詳しく、古事記を中心に話を進めていきます。
仲哀天皇は熊襲討伐を行う為に、神功皇后や武内宿禰らを集めて香椎宮で協議しました。
この時に仲哀天皇は琴を弾き信託を求めると、神功皇后に神が掛かりました。
神が掛かった神功皇后によると、次の様に述べたとあります。
※古事記より
西の彼方に国があり、金・銀だけではなく輝かしいばかりの宝が沢山ある。
我はその国を天皇の帰属させ授けようと思う。
ここで、天皇は西の方を見ますが、何もなく次の様に述べました。
仲哀天皇「高い場所に登り西の方を見ても国土もなく、単に大海があるばかりです」
仲哀天皇は神が偽りを述べたと考え、神の発言を疑い御琴を押しやり、弾く事もなく沈黙しました。
神功皇后に憑依した神は仲哀天皇が疑っている事に気が付くと、怒り次の様に言葉を発します。
この天下はお前が統治する所ではない。
お前は一筋の道に行くがよい。
この事態に驚いたのが武内宿禰であり、次の様に述べました。
武内宿禰「これは恐れるべき事態です。
我が天皇。どうか、そのまま琴を弾いてくださりませ」
仲哀天皇は武内宿禰の言葉を聞くと、中途半端に琴を鳴らしました。
それから間もなくして、急に琴の音が聞こえなくなったわけです。
ここで火を点けて仲哀天皇の様子を見ると、既に崩御していました。
これが、古事記における仲哀天皇の最後となります。
仲哀天皇崩御の謎
仲哀天皇の最後ですが、幾つか疑問点があります。
最初に、神は仲哀天皇に西の国を与えると言いました。
後の神功皇后の三韓征伐などを考えると、神のいう「討つべき国」は新羅という事になります。
しかし、九州から見て新羅は北にあり、西にあるのは中国大陸となります。
この為、仲哀天皇が西を見て「国が無い」と判断したのは、まともな判断の様にも見えるわけです。
ただし、神のいう西は過去に仲哀天皇や神功皇后がいた敦賀から見て西だったのではないか?とする説もあります。
尚、日本書紀の仲哀天皇の記述だと、仲哀天皇は神の言葉に反し、熊襲討伐を行い失敗し、その後に体調を崩し病死した事になっています。
こうした事から、仲哀天皇は熊襲との戦いで戦死したのではないか?とする説もあります。
他にも、仲哀天皇は新羅征伐に反対であり、新羅討伐を行いたい群臣らが仲哀天皇を亡き者にしてしまった主張する人もいます。
しかし、これらは確認する事が出来ず、たまたま仲哀天皇が琴を弾いた時に、心不全で亡くなった事も考えられ、正確な部分は分からないとしか言いようがありません。
ただし、個人的には仲哀天皇の死は不自然な部分が多いと感じています。
仲哀天皇の後継者
古事記の記述から分かる様に、仲哀天皇の死は急死であり群臣らは驚き恐れる事になります。
仲哀天皇の遺体を殯宮に安置し、儀礼を執り行い国事として祓いの捧げ物を供えました。
さらには、生きたまま獣の皮を剝ぐ罪、獣の皮を逆に剥す罪、田の畦を破る罪、田に引く水の溝を埋める罪、神域に糞を放る罪、親子の姦淫の罪など、様々な罪を求め国家としての穢れを払ったとあります。
ここで武内宿禰が祭場に出て神託を求めました。
武内宿禰が丁寧に神の教えを皆に諭すと、神からは次の様な言葉を頂く事になります。
※日本書紀より
神「この国は皇后の胎内にいる御子が統治すべきである」
ここで武内宿禰は次の様に問いました。
武内宿禰「恐れ多くも我が神に問いたいと思います。
大神の言う胎内の御子は、どちらの子なのでしょうか」
武内宿禰のいう「どちらの子」というのは、男の子が生まれるのか?女の子が生まれるのか?問うてみたわけです。
神は「男子である」と答えました。
さらに、武内宿禰は大神の名前を問うと「天照大神の心意であり、我は住吉の底筒男命、中筒男命、上筒男命の三大神」だと名乗りました。
住吉三大神は西の国を望むなら、住吉の御霊を使い大海に浮かべ渡海するがよいと教えてくれたわけです。
これにより仲哀天皇の後継者は神功皇后のお腹の中にいる応神天皇となりました。
ただし、仲哀天皇は死去しており、神功皇后が摂政となり政治を行う事となります。
応神天皇が仲哀天皇の後継者となったわけですが、この様な事を仲哀天皇の子である麛坂皇子と忍熊皇子が許せるわけもなく、後に戦いへと発展していきます。
尚、仲哀天皇は急死した事になっており、神功皇后とその一族は、このまま行けば麛坂皇子と忍熊皇子のどちらかが天皇になってしまう事を防ぐために、話をでっち上げた可能性もある様に思います。
一族の権益を守るために、神功皇后のお腹の子を無理やり天皇にしてしまった様にも感じています。
日本書紀にも神功皇后と武内宿禰は、仲哀天皇の崩御を天下に知らせず、宮中を守らせた記述があり、仲哀天皇の死後に何かしらの事があったのでしょう。
尚、仲哀天皇の葬儀は、新羅との戦いがあった事から行われなかったと記録されています。