名前 | 上杉能憲(うえすぎよしのり) |
生没年 | 1333年ー1378年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父親:上杉憲顕 養父:重能 兄弟: |
兄弟:憲将、憲賢、能憲、憲春、憲方、憲英、憲栄、岩松直国室、上杉朝房室 | |
養兄弟:顕能、重季 | |
コメント | 関東管領に就任した |
上杉能憲は上杉憲顕の子で、宅間上杉家の上杉重能の養子にもなっています。
観応の擾乱では直義派に与し、信太荘で挙兵し上洛までしました。
観応の擾乱後に父親の上杉憲顕と共に没落しますが、足利義詮の時代に足利基氏の計らいもあり復活しました。
上杉憲顕が亡くなると、上杉朝房と共に関東管領に就任しています。
鎌倉公方の足利氏満が幼かった事もあり、上杉能憲が代理で政務を行っています。
後に関東管領は弟の上杉憲春に譲りますが、所領などは上杉憲方に譲り上杉憲孝を養子としました。
上杉能憲は漫画逃げ上手の若君では「獣人」の様な姿で描かれて話題になっています。
上杉重能の養子になる
上杉能憲は山内上杉家の上杉憲顕の子として、1333年に誕生しました。
当時は鎌倉幕府の最末期であり、後醍醐天皇の建武政権が誕生する目前でもありました。
後に上杉能憲は同族の上杉重能の養子となっています。
上杉能憲は貞和五年(1349年)に兵部少輔に就任しています。
観応の擾乱において養父の上杉重能は高師直の御所巻の後に流罪となり、畠山直宗と共に最後を迎えました。
観応の擾乱
上杉能憲が信太荘で挙兵
観応の擾乱が軍事衝突になると、観応元年(1350年)11月に、上杉能憲は信太荘で挙兵しました。
失脚していた足利直義が大和に逃れ挙兵しており、高師直と高師泰の追討命令を出しており、上杉能憲は直義派として応えたわけです。
これが上杉一族の最初の行動であり、上杉憲顕も守護分国である上野に向かう事になります。
当時の信太荘は上条が上杉重能が支配し、下条は高師冬が支配していました。
当然ながら、高師冬は師直派であり、上杉能憲にとっては敵となります。
高師冬は足利基氏を確保するも奪われ甲斐に没落し、上杉憲顕の子の上杉憲将は数千騎と共に甲斐に向かいました。
直義の援軍として上洛
高師冬が世を去ると上杉能憲は東海道を通過し、上洛しようとしました。
上杉憲顕も上洛しようとしますが、足利直義に断りを入れられています。
上洛を足利直義に断られた事で、息子たちを上洛させる事にしたのでしょう。
東海道から上洛しようとした上杉憲顕ですが、何故か北陸道を通り上洛する事になります。
なぜ東海道を通らなかったのは不明ですが、何かしらの作戦があったのかも知れません。
ただし、遠回りとなり上洛は遅延しました。
石清水八幡宮の神宮寺にある善法寺に上杉憲顕の子息が千騎で到着した記録があり、これが上杉能憲の軍勢だと考えられています。
上洛した上杉能憲は過去には武庫川で高師直の一族を討ったともされていましたが、現在では高一族の多くの討ったのは、上杉重季だとされています。
ただし、上杉重季が高一族を討ったとしても、上洛した上杉能憲が全く関与しなかったのはあり得ないとも見られています。
上杉能重の没落
足利尊氏と直義の講和が成立すると、上杉能憲は鎌倉に戻る事になります。
それから間もなく、足利直義は義詮と不和になり、北陸に出奔し関東に入りました。
足利尊氏が東征を始めると駿河国由比蒲浦に出陣しています。
しかし、宇都宮氏綱の活躍もあり、足利直義は敗北し後に病死しました。
上杉憲顕は信濃に没落しますが、当然ながら上杉能憲も没落しています。
武蔵守護と出家
足利義詮の時代になると、旧直義派の多くが幕府復帰しました。
関東では鎌倉公方の足利基氏が上杉憲顕を関東管領に任命しています。
当然ながら上杉能憲も幕府復帰しました。
足利基氏が貞治六年(1367年)四月二十六日に、若くして死去しました。
後継者には10歳にも満たない足利氏満が鎌倉公方となっています。
こうした理由からなのか翌年の応安元年(1368年)七月に上杉能憲が武蔵守護となり、出家までしてしまいました。
上杉能憲の法名は道諲となっています。
関東管領に就任
1367年の暮れには足利義詮が亡くなり、足利義満が後継者になりますが、こちらも十歳の子供でした。
細川頼之が管領となり政務をみる事になります。
関東管領は上杉憲顕でしたが、この頃に河越直重が平一揆の乱を起こし鎮圧されますが、この頃に上杉憲顕は亡くなっています。
上杉憲顕が亡くなると、関東では上杉能憲と犬懸上杉家の上杉朝房が関東管領となり、足利氏満に代わり政治を行う事になりました。
この時期に足利氏満による発給文書は見られず、関東管領である上杉能憲が関東管領奉書という形で、寺社への祈祷命令、寄進、沙汰付けなどを行っています。
鎌倉公方の役割を上杉能憲が代行したと言えそうです。
関東管領に就任すると上杉能憲は武蔵守護は弟の上杉憲方に譲っています。
平一揆の乱で伊豆守護だった高坂氏重が没落したと見られており、上杉能憲が伊豆の守護に就任しました。
伊豆国守護は過去には、養父の上杉重能も就任しており、感慨深いものがあったのかも知れません。
尚、応安三年(1370年)に上杉朝房が一旦上洛すると、関東管領としての職務は上杉能憲が一人で行っています。
関東管領の辞職
永和二年(1376年)五月になると、上杉能憲は病に掛かり一時は危篤状態となりました。
上杉能憲は関東管領の辞職を願い出ています。
足利氏満は京都に申し出てからとし、一度は拒みましたが、結局は関東管領の辞職を認めました。
上杉文書によると、この頃に上杉能憲は所領及び所職を上杉憲方に「当知行所々」として譲ったとあります。
上杉能憲が上杉憲方に譲渡したものとして伊豆国守護、相模山内庄も含まれています。
山内庄が後の山内家の本拠となりました。
こうした事から上杉憲方の次男である上杉憲孝が、上杉能憲の養子になったのでしょう。
尚、上杉能憲の病は一カ月ほどで回復し、関東管領に復帰しました。
しかし、同年12月に弟の上杉憲春に関東管領の代行を依頼しており、実質的には隠遁したと考えられています。
上杉能憲の最後
永和四年(1377年)の四月になると、再び所領の譲与を上杉憲方に行いました。
弟の上杉憲春の上野守護に関しても、上杉憲顕に遺領配分によるものではなく、上杉能憲の差配により得たものであり、最終的には家督分として上杉憲方が継承する様に定めています。
上杉能憲により上杉憲方は伊豆と上野の守護を継げる様になりました。
遺産相続を決めた三日後に四十六歳で最後を迎えています。
上杉能憲には子がなく上杉憲方が後継者となり関東管領にも就任しました。
養子となった上杉憲孝も後に関東管領に就任しています。