ウルイニムギナの別名はウルカギナであり、王権の簒奪者と呼ばれている人物です。
シュメール人の都市であるラガシュでは、ラガシュ第一王朝(ウルナンシェ王朝)が建国される事になります。
ラガシュ第一王朝はエンメテナの時代に全盛期を迎えますが衰退し、その後はエンエンタルジとルガルアンダの親子が支配した後に簒奪者とも呼ばれるウルイニムギナが即位する事になります。
エジプトなどの王朝はナルメルを開祖としますが、男系の王統が終わる度に、エジプト第三王朝、エジプト第四王朝という具合に移行しますが、メソポタミアのラガシュでは支配者が変わっても、王朝の系統が変わったとはみなされない様です。
ウルイニムギナは、ラガシュ第一王朝最後の王であり、ウンマ王で後にウルク第三王朝を建国するルガルザゲシに敗れた事で有名です。
尚、ウルイニムギナに勝利しシュメール地方をほぼ統一したルガルザゲシもアッカドのサルゴンに敗れています。
アッカド人のサルゴンは、初のメソポタミア地方統一という偉業を成し遂げる事になります。
因みに、ウルイニムギナの治世4年に「輝く星が高い所から落ちてきた月」という記述があり、これが世界最古の隕石の記録とも言われています。
ウルイニムギナとルガルザゲシの戦いはメソポタミア文明の攻防の歴史の一つとも言えるでしょう。
ウルイニムギナのラガシュ王簒奪
ウルイニムギナは先に述べた様に王権の簒奪者だと考えられています。
ラガシュの王碑文が残されていますが、父親から王位を譲られた場合は、父親が王だったと記録するのが普通です。
しかし、ウルイニムギナの場合は父親の記録が一切なく、ウルイニムギナは父親から王位を譲られたわけではなく、前身は軍の司令官だったと考えられています。
ウルイニムギナはラガシュ第一王朝の王に即位すると、前任者であるエンエンタルジとルガルアンダの親子を非難しています。
ウルイニムギナ王の改革碑文によれば、エンエンタルジとルガルアンダは神々の財産を横領し、役人たちは重い税金を庶民にかし、強者が弱者の財産を奪っていたと記載されています。
ウルイニムギナの前任者を糾弾する声明は、自分の正統性をアピールする狙いがあったのでしょう。
尚、ウルイニムギナの王権を奪われたルガルアンダは、王権を簒奪され碑文で糾弾され踏んだり蹴ったりだったとも言えます。
ウルイニムギナの改革と頓挫
ウルイニムギナは即位すると2年目から改革を実行した話があります。
ウルイニムギナ王の改革碑文によれば、ラガシュで負債に苦しんでいる者や小作料を支払えない者、返却すべき大麦を持っている者などを救ったとあります。
さらには、罪を犯した盗っ人や殺人者達をもウルイニムギナは牢獄から自由にしたとあります。
他にも、孤児をや未亡人の救済や奴隷などの社会的弱者を庇護した話まであるのです。
これを見るとウルイニムギナは徳政令や善政を行った様に思うかも知れません。
しかし、実際のウルイニムギナの改革は治世3年目で早くも頓挫した話があり、王莽の新(中華王朝)の様に時代に合わない改革を行ってしまった可能性も十分にあります。
罪や罪人を牢獄から出すなど、行き過ぎた改革が原因との声もあります。
ウルイニムギナの改革碑文では、意味がよく分からない部分も多くあるのが現状です。
それでも、治世3年で頓挫する辺りは、改革自体が現状にあっていなかったと言えるでしょう。
因みに、バビロン第一王朝のハンムラビ王が制定したハンムラビ法典の元になったとも言われるウル第三王朝のウルナンム法典にも「私(ウルナンム)は孤児を富める者に引き渡さない、未亡人を強き者に引き渡さない」とあり、ウルイニムギナと同じ事を言っているわけであり、当時の思想が分かる部分でもあります。
ラガシュ第一王朝の滅亡
ウルイニムギナの代でラガシュ第一王朝は滅亡した話があります。
ウンマとの100年戦争
同じシュメール人の都市国家であるラガシュとウンマの間で100年戦争が勃発した話があります。
ウルイニムギナは改革をしながらも、ウンマとは一触即発の危機にあったのでしょう。
尚、ラガシュ第一王朝は東のエラムの玄関口でもあり、異民族であるエラム人との矛を交えた話しもあります。
ウルイニムギナに同情するとすれば、即位した時のラガシュ第一王朝は危機的な状況だったとも言えます。
さらに、ライバルであるウンマにはルガルザゲシなる英雄的な君主もいたわけです。
徴兵の記録
ウルイニムギナの時代に徴兵の記録の残っています。
総計155人の槍兵、12人の盾兵、バウ女神所有の人
これらの記述があり、ラガシュの王宮で閲兵式を行った話もあります。
この記録は、ウンマ王であるルガルザゲシとの戦いにおいて治世6年の事だとされています。
ルガルザゲシの進撃
ウルイニムギナの5年位からウンマのラガシュへの侵入が加速されたとされています。
ウルイニムギナの改革が失敗し社会的な混乱があったと考え、チャンスだとウンマ王のルガルザゲシが考えた可能性があります。
ウルイニムギナの治世の7年には、遂にルガルザゲシの軍がチグリス川を渡り越えラガシュを侵略した話もあるほどです。
ラガシュに侵入したルガルザゲシの軍に関しては、次の記述が残っています。
ウンマが国境の運河で火を放ち、アンタスラ神殿を放火、黄金とラピスラズリを持ち去った。
ティラシュ大神殿、アブズバンダで殺戮を行った。(中略)
この様にウンマの軍はラガシュで放火や殺戮、略奪を行い破壊しつくした話があるわけです。
ウルイニムギナは簒奪者として名を残す事になり、ルガルザゲシに敗れた事でシュメール地方の覇者になる事は出来ませんでした。
ただし、ウルイニムギナはルガルザゲシに敗れはしたが、ここで死ななかった話もあります。
ラガシュの呪い
ウンマ王ルガルザゲシはラガシュの都市を占領しますが、次の話も残っています。
ウンマの人々はラガシュを破壊し、ニルギルス神に対し罪を行った。その勝利に呪いあれ。
罪はウルイニムギナにはない。
ウンマ王ルガルザゲシの個人神であるニサバ女神は、その罪を首にかける様に。
これらの記述は、ラガシュ第一王朝の滅亡の罪は、ウルイニムギナではなくウンマ王ルガルザゲシが崇拝するニサバ女神にあると非難した事になります。
この恨み節とも呪いとも言える言葉は、現実となりラガシュを破りメソポタミア地方南部のバビロニアの統一を目指したルガルザゲシはアッカドのサルゴンに敗れる事になります。
ラガシュの呪いの言葉には、「ニサバ女神に罪を首にかける」とあり後年にルガルザゲシがアッカドのサルゴンに敗れた時は、ルガルザゲシ自身が首に軛を掛けられる事になります。
ウルイニムギナの暗躍
ラガシュ第一王朝滅亡後のウルイニムギナは、アッカド人のサルゴンと手を組んだ話も残っています。
ウルイニムギナは、改革には失敗しましたが、弱者救済政策により一定の評価はされていたのかも知れません。
ルガルザゲシはシュメール地方をほぼ統一すると、本拠地をウンマからウルクに移しウルク第三王朝を建国する事になります。
ルガルザゲシはバビロニアの統一を目指したのか、メソポタミア中部のサルゴンと決戦を行った話があります。
サルゴンはルガルザゲシを破った時に、ルガルザゲシに軛を掛けた話も残っています
しかし、ルガルザゲシはサルゴンに敗れウルク第三王朝も滅亡する事になったわけです。
この時に、ウルイニムギナはアッカド王家に協力し、情報を流すなども行っていた話もあります。
ウルイニムギナはラガシュを統治していた人物であり、シュメール地方に詳しかった事もあり、サルゴンのメソポタミア南部の統一に役だったのではないかとも考えられています。
ラガシュのその後
ウルイニムギナのその後はよく分かっていないのが現状です。
ただし、ラガシュの王朝がウルイニムギナの代で滅んだ事は間違いありません。
ラガシュの王朝は後に、サルゴンの次の王であるリムシュの代にアッカドに対して反乱を起こした記録があります。
これがラガシュ第二王朝の記録です。
その後のラガシュはグデア王の時代に再度、繁栄する事になります。